【放送大学】『人間にとって貧困とは何か』第8回 子どもにとって貧困とは何か

いろいろエッセイ
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 1.社会問題としての子どもの貧困

 ようやく子どもの貧困が社会問題として議論されるようになってきた。自由ならびに平等という価値を追求する時、14%という子どもの貧困率は優先度の高い課題である。子どもはどこに生まれおちるのか自分で決めることはできない。そして、そこでの条件の有利不利はまさに不平等としか言うことができない。また、子どもの貧困は社会問題としての側面をも持っている。
 こうした議論に反論する人々もいる。それは日本の新自由主義者である。彼らは「親が悪い」のだから政府はかかわるべきではないと主張する。貧困への取り組みにおいて、最大の障壁は、制度と社会を強固に呪縛し続けている家族主義である。
 就学援助制度は、生活保護世帯と準要保護世帯(生活保護水準に近いと市区町村が認めた世帯。なお基準は市区町村によって異なる。)に適用される。準要保護世帯の多くは生活保護水準にありながら生活保護を受給していない世帯である。そして、就学援助を受けている世帯のうち9割以上が準要保護世帯というのが実状なのである。
 日本の子育ては社会的に支えられているというよりは家族依存の傾向にあり、日本は他の国よりも子どものいる世帯に対する社会保障給付が薄く、税や社会保障費の負担が重い傾向にあって、所得再分配が貧困削減の機能をほとんど果たしていない。
 子どものいる貧困世帯の半数以上はふたり親世帯であるが、家族形態別の子どもの貧困率はふたり親世帯では12.4%、ひとり親世帯では54.6%となっている。
 母親たちが選べる職種は、非正規の臨時・パート職がおもで、そのことの不利が明らかに直撃しているのが母子世帯なのである。日本のひとり親世帯の貧困率は高く、OECD加盟国中最も大きい。
 子どもの貧困への対策の中心は、やはり経済的な援助の具体化と積極的な教育保障ということになるであろう。ただし、貧しい子どもたちを学歴競争に向けて加熱させることを目的としてしまうと、競争の敗者というラベルをあらためて貼られた若者たちを数多く作り出しただけで終わってしまうのではないかという危惧を著者は抱いているようである。

 2.イデオロギーとしての遺伝論

 貧困を生きる人々にとって、最も厳しい敵は宿命論として機能する遺伝論である。このイデオロギーは貧者をあきらめへと誘導し「仕方がない」と現状を受容させる宿命論として立ち現れる。
 「インセンティブ・ディバイド(意欲格差)」という言葉がある。親の階層が上層だとその子どもの学習意欲がほとんど低下しないのに対して、より下層の場合には学習意欲の低下が顕著だったのである。つまり、多くの場合、不利はあきらめへと人々を誘うのである。不利が意欲を生むというのは特殊的な事態であり、なかなかそれを逆転するのは難しいようなのである。

 3.社会化

 人、特に貧者は宿命論にとらわれてしまいがちだが、それでもあきらめきれずに「今の私ではない私」をイメージする。その宿命論をこえるイメージはどこからやってくるのか。この問いに社会学的に答えるためにはG・H・ミードの社会化についての議論を経由する必要がある。
 ミードは、子どもが社会化において強い影響を受ける人物を重要な他者と呼ぶ。重要な他者は家族から広がっていき、その人数も増えていく。やがて、子ども(幼児)は重要な他者からの期待を自分なりにとりまとめ、一般的な期待を想像しつつそれに合わせて振る舞わなければならなくなる。そうすることで、一人の重要な他者(たとえば母親)の直接的影響から離れて、一般化された他者による自己拘束へと移行するのである。こうして、その幼児は社会というひろがりを生きる小さな個人になるのである。
 このミードの社会化についての議論を踏まえるなら、「親しかモデルがいない」という状態は高リスクであることが分かるだろう。狭い世界を相対化して社会というひろがりの中に身を置けば、その狭い世界を客観化することができる。社会化は、それぞれの家族・学校・地域・職場をこえた社会というひろがりにおいてなされるものなのである。

 4.社会関係資本

 教育社会学者の志水は、「つながり」の豊かさの度合いが学力と相関していると述べている。近隣関係が密で「地域とのつながりが強い」(地域の持ち家率が高い)、「家族とのつながりが強い(離婚率が低い)、「学校とのつながりが強い」(不登校率が低い)、この3つのつながりが豊かな自治体の子どもたちの学力は相対的に高く、逆に「つながり」が揺らいでいると思われる自治体の子どもたちの学力は低いという傾向が、経済的条件にあわせて浮上してきたという。
 貧しい子どもであるならなおさら多様な大人たちに囲まれるべきである。貧しい子どもの社会化とアイデンティティ構築の観点からは、多様な人々との接触を通じて、彼らが生きる世界をこえて存在するひろがりを感覚するところに大きな意味があるのである。

 5.攻撃される子どもたち

 貧者、貧しい子どもであることは社会的なスティグマ(烙印)である。ひとたび貧者として認識されれば、貧者としての烙印を通してしか理解されなくなる。そして、スティグマから自由になるための自己呈示は往々にして社会的に拒絶される。
 貧困のスティグマを通して貧者を見る人々は、「貧乏人らしい」もの以外の貧者の自己呈示を許さない。
 だから、NHKのニュースで母子世帯の女子生徒が生活の苦しさを訴えても、(進学できないこと、パソコンが買えないこと等)自室に趣味の物品があることが判明しただけで叩かれる事態となったのである。

 <わたしの感想>
 わたしも子どもの貧困については、子どもの側には何の責任もなく、ただ生まれてきた家庭が貧しかったばかりにあらゆる不利な状況を背負わされるのはいかがなものかと思う。大人には自己責任論を持ち出せないこともないが、子どもには無理だ。
 この不利な状況を乗り越えなければならないと人間がスタートラインが一緒だと強調する人もいるけれども、まずもってスタートラインから周回遅れくらいの差がついているのではないか。
 人間は平等のはずなのに平等になっていない。そこにやりきれない思いのようなものをわたしは感じてしまう。
 自分のことに置き換えてみれば、貧困層から一発逆転することがいかに難しいかということをわたしはひしひしと感じている。
 日本なら貧困はありながらも餓死するほどの貧困はない。しかし、世界に目を広げてみると生活保護制度があるわけでもなく、今日も飢えて餓死している人やお腹をすかせた人たちがいる。
 彼らにあなたがたが飢えているのは自己責任だと言い切れるのか。
 わたしたちは一人ひとりが徹底的に不平等である。能力、身体、精神、経済的状態、情報、環境、すべてが不平等で不公平である。不条理でさえあると言ってもいいかもしれない。
 その中でどうやっていくのが一番いい方法なのか。人類は今まで試行錯誤しながらやってきた。でも、問題は解決していない。もしかしたら解決不可能な問題なのかもしれない。でも、あきらめたくない。そんなことを思い、考えた今回の学びであった。


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