中学生の時にふと感じた満たされない気持ち。その正体がやっと今頃になって分かった。それはすべてが過ぎ去ってしまうことへの空しさのようなものだったのだ。
どんなにおいしい食事も、楽しいゲームも、お祭りも、つまり、どんなことにも終わりがある。それがどこか寂しくてそのことに不満のような何か言いしれぬ感情を抱いていた。その時間が楽しければ楽しいほど、それが終わると力が抜けるというか、我に返る感じで「あぁ、終わってしまった」と思う。
中学生のわたしは心のどこかで永遠というものを求めていたのかもしれない。終わることのない、ひたすら続く歓喜の時を。
でも、そんなのはこの世界というか、日々の日常にはないことが分かった。すべては無常で変化して始まりがあれば終わりがある。永遠の至福なんてものはない。
だからこそ、わたしは永遠というものに憧れてキリスト教の洗礼も受けたのだろう。キリスト教を離れた今も、悟って解脱して永遠に安らぎを得られたらいいなぁと思うわけで、結局永遠がほしいっていうことなのだろう。
でも、インド哲学のヴェーダーンタを学び始めて、もしかしたらそんな手に入れようとしなくても、もう既にわたしはその永遠であって、ただそのことに気付いていないだけではないかという気がしてきた。この「気がする」というわたしの直感。ヨガの先生は「すごく大事だよ」って言ってた。気付き始めてる? どうなんだろ?
1983年生まれのエッセイスト。
【属性一覧】男/統合失調症/精神障害者/自称デジタル精神障害/吃音/無職/職歴なし/独身/離婚歴なし/高卒/元優等生/元落ちこぼれ/灰色の高校,大学時代/大学中退/クリスチャン/ヨギー/元ヴィーガン/自称HSP/英検3級/自殺未遂歴あり/両親が離婚/自称AC/ヨガ男子/料理男子/ポルノ依存症/
いろいろありました。でも、今、生きてます。まずはそのことを良しとして、さらなるステップアップを、と目指していろいろやっていたら、上も下もすごいもすごくないもないらしいってことが分かってきて、どうしたもんかねえ。困りましたねえ、てな感じです。もしかして悟りから一番遠いように見える我が家の猫のルルさんが実は悟っていたのでは、というのが真実なのかもです。
わたしは人知れず咲く名もない一輪の花です。その花とあなたは出会い、今、こうして眺めてくださっています。それだけで、それだけでいいです。たとえ今日が最初で最後になっても。