今は8月の上旬でセミが鳴いている。これでもか、これでもかというくらい鳴いている。懸命に懸命に大きな声で。
で、わたしにとって今、鳴いているセミのうちどれがポンコツで無能なのかということはどうでもいいことなのは明らかでそもそも興味すらない。
以前、わたしはこのブログに「ポンコツ君」という記事を書いた。今思うと、何であんなにどうでもいいことについて熱く語ったのだろうと思ってしまうくらいだ。理屈で語るとああいう感じになります、というやつだったと思う。
わたしはあの記事で、人のことをポンコツ呼ばわりする奴がポンコツで、そういうことを言うこと自体が「自分はポンコツだ」と言っているようなものだと厳しい言葉を連ねた(しなくてもいい無益な反論だった)。
そうしたらまたそれに対してその人からの批判コメントが届いて、という次第で(これもしなくていい無益な反論だろう)、またわたしはそれに対してコメントを返して、と小競り合いを始めていた。
でも、何かもういいかなって思う。どっちがポンコツで、どっちがそうではないかなんて本当にどうでもいい話じゃない? というか、客観的に言ってしまうと、その人もわたしと同じ統合失調症らしいから、健常者から見たら障害者ということでポンコツだということになるだろうし、わたしよりもたくさん薬(おそらく精神科の薬だろう)を飲んでもいるみたいだから、仕事をしているけれども病状としてはそれだけの薬を必要としているわけだから、もしかしたらわたしよりも故障していて、よりポンコツである可能性は高い。
これはすごくイタい図だなぁって思う。仕事をすることができているポンコツがそれをできていないポンコツを批判して叩いているだけのことで、よりレベルの高い人たち(健常者でたくさんお金を稼げているエリートの人たち)からみたら、しょうもないドングリの背比べをしているだけにしか見えないのだ。
と、また気がつくとわたしは攻撃的な物言いをしてしまっているように見えるかもしれないけれど、第三者から見たらおそらくそういう風に見えるだろうなということを想像しているだけなので敵意も悪意もない(という風に好意的に解釈してほしい)。
人とセミは違うと思うかもしれないけれど、わたしは同じようなものなんじゃないのって思う。セミが二匹いて、どちらのセミが上で下なのか。どちらがポンコツで、どちらがそうではないのか。これは比べるだけ意味がないことで、宮沢賢治の「どんぐりと山猫」という話で、どんぐりたちが不毛な議論をしている箇所を読んでもらえば、その不毛さと無意味さがよく分かるはず。
セミは成虫になると10日から2週間くらいで死ぬ。だったら、それでいいじゃじゃないのって思うんだけどね。人だって二週間くらいではまず死なないものの、100年後にはみんな死んでいるんだから。だからこそ、今、生きているわたしたちは夏を謳歌してひたすら鳴いているセミと同じようなことをしていて、同じような状況にあるわけだ。
でも、まぁ、わたしがポンコツだということにしておきたいのであれば、そう思っていてくれればいいし、見下し続けていてくれればいい。ポンコツというレッテルを張り付けて「これだからお前はダメなんだよ」ということにしておいてくれればそれでいい。
けれども、何かそれって寂しくない? 人としてすごく寂しいし、愛のある優しくて思いやりのある態度でないことだけはたしかで、言うまでもないと思うけどね。
というか、そもそもわたしはその人がポンコツかどうかということを知りたいと思わないし、会ったことさえない人なのだから、文字の情報だけで判断するのは無理がある。それにこういうことを言うとまた反発を食らいそうだけれど、そこまでわたしはその人に興味関心がない。突き放すつもりはないながらも本音を言うと、死なないで達者にやっていてくれればいいくらいの気持ちしかわたしは持っていない。
わたしが今、その人に言いたいこと。
「つまんないからやめようか」。
ってか、やめよう。やめましょう。つまんなくて面白くもないから。どっちがポンコツなのか、さらに、もっと突き進んで、誰が一番ポンコツなのかとポンコツ王選手権をやっても仕方ないでしょ(笑)
そもそも、
「お前はポンコツだ」
「いや、お前がポンコツで俺はポンコツじゃない」
などと言い合っていること自体が、会話の内容とそのレベルからしてポンコツだと思う。
と、提案して和平交渉でも始めた感じのわたし。
で、最後に核心に迫る話をしたいと思う(そう思ってもらえるかどうかはわからないけれど)。それはポンコツならポンコツでいいんじゃないの、という話で、ポンコツにはポンコツの役割があってできることがあるんじゃないかっていうことなんだ。さっきから「ポンコツ」という不快な言葉を何回も言ってしまっている。はっきり言って耳障りだ。
では、この「ポンコツ」をもっと適切に、かつ肯定的に言い換えるとしたらどう言えるのかというと「弱さを抱えていること」「弱いこと」とも言えると思う。つまり、ポンコツ君とは「弱き人」のこと。
「お前はポンコツだ。ポンコツ君だ」と言えるのは強いことが良しとされる強者のマッチョな価値観がまかり通っている世界の中でだけだ。一人前にできるかどうか。機械として故障しないでちゃんと仕事や作業ができているかどうか。「強くないならせめて一人前のことはやれ」という前提あってこそだ。
でも、そういう世界は息が詰まると思う。弱さを認めようとしないで、弱さをポンコツという一言で否定する時、今は自分はできていても、結果として、いつ自分がそのポンコツの状態になってしまうのか分からない不安や恐怖に脅えることになるからだ。
で、ポンコツな機械はどうするかと言えば、修理をしてまともな状態にする。まともな状態になればとりあえず使えるようにはなる。でも、修理ができないくらいのポンコツになってしまったらどうするのか? 機械はどうされてしまうのか? そう、つぶされて鉄クズにされる。さようなら~。使えないポンコツだから、さようなら~というわけだ。
ではでは、これを人の場合にあてはめて考えてみましょう。ポンコツな状態、人で言えば病気や障害になって働けなくなったら治療やリハビリなどをして仕事に復帰できるようにする。これが人の場合の修理。でも、その修理である治療やリハビリには限界があってすべての人が働けるようはならない。となったら、その人たちはもう修理できないポンコツなのだからつぶして鉄クズのスクラップに、ということになるでしょ?
この思想には問題があるわけだけれど、弱いことはかならずしも否定的なことではない。弱さを通して気付くことがある。どっちがポンコツかということがどうでもいいということに加えて、そのわたしのことをポンコツ君呼ばわりした人には「弱さ」ついても考えてほしいなって思う。というか、強い人がいるためには弱い人が必要だとも言えるよね。みんなが強かったからその中で強くなるためにはものすごく強くならなければならない。そんな世界、本当苦しいし、わたしはイヤ。
いろいろ書きました。とりあえず、つまんないからやめようか。これがわたしからのお返事です。「いいこと言ってるでしょ」ってね。自分で言うなよ。

エッセイスト
1983年生まれ。
静岡県某市出身。
週6でヨガの道場へ通い、練習をしているヨギー。
統合失調症と吃音(きつおん)。
教会を去ったプロテスタントのクリスチャン。
放送大学中退。
ヨガと自分で作るスパイスカレーが好き。
茶髪で細めのちょっときつめの女の人がタイプ。
座右の銘は「Practice and all is coming.」「ま、何とかなる」。