宝物とゴミ

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 まわりから見ると、どう見てもイケている感じにしか見えないお兄さんが、実は女の人と一度も付き合ったことがなくて、生きるか死ぬかと人知れず悩んでいる。このことに気付く人はおそらくいないだろうし、想像する人も皆無ではないかと思う。
 とわたしの現在の心境を綴ってみたのですけど、自分で自分のことをイケてるだの何だのと言ってしまうところが浅はかで自慢げでお子様だって言われそうだ。そう、空気が読めないんです。いえ、読もうとしてはいるものの、読むところが違っていて、読む必要がないところを読んでいて、周りからは読めていないように見える、ようなそんな感じ。
 調子が悪くなってくると、次のような呪いの言葉が頭に浮かんでくる。
「わたしは、いてもいなくても同じではないか」。
 わたしが死ぬなり、消えるなりしてこの世界からいなくなっても、特に何事もなかったかのように、そんなことはまるで何も関係ないかのように、誰も困ることもなく、この世界は回っていく。わたしがいない世界になっても、それなりに残された人たちはやっていくだろうし、そもそもわたしは必要不可欠な存在ではない。80億も人間はいるのだから、その80億滴の水のうちの1滴がなくなっても、全体からみたらそれが消えたかどうかなんていうことはどうでもいいことのはず。
 と考えてしまうと寂しい気持ちになるし、自暴自棄にさえなってくる。では、いてもいなくても同じではない人とはどのような人なのか? どうすればそういう人になることができるのか、少し考えてみたい。
 まず、みんな、それも多くの人たちから必要とされていて、その人がいないとものすごく困る人なら、いなければいけないのだから、いてもいなくても同じではないということになる。たとえば、アメリカの大統領に、日本の総理大臣。彼らはみんなから必要とされている。いてもいなくても同じではなくて、いなければならないし、いなくなってはみんなが困ってしまう。つまり、必要とされている。だからこそ、大統領と総理大臣のそれぞれの人には価値がある。現に、彼らが何かを言ったり、やったりすれば、テレビや新聞などのメディアで大々的に取り上げられるし、一挙手一投足に常に注目が集まっている。この前なんて日本では国葬をやったくらいだから、名もない一般市民よりも総理大臣の方が偉いし、人としても価値が高い。わたしが死んでも、あるいは失踪していなくなったとしても、ほぼほぼ誰も知らないし、テレビのニュースで取り上げられることもない。けれども、大統領や総理大臣という一国の長がそうなったら、その国では大騒ぎになるだろう。ということは、そういった力がある人は、いてもいなくても同じではないけれども、わたしはいてもいなくても同じようなものだ、という風にしか思えない。
 大統領に総理大臣だなんて取り上げる例がオーバーで極端なんじゃないのと思うかもしれない。でも、そこまで責任ある立場にない人であっても、いてもいなくても同じではない人というのはいる。仕事などでそれなりに責任がある立場にいたり、家庭を築いていて奥さんと子どもがいるような人。そういう人たちは、いてもいなくても同じではなくて、いなくなっては困る。必要とされていて、いなければならないんだ。
 となると、いてもいなくても同じではない人というのは、誰かから必要とされている人だという結論で落ち着くようだ。だから、誰からも必要とされていない人は、いてもいなくても同じだということになって、それがもっと甚だしくなれば、むしろ、いないほうがいいという人になっていく。具体的な感じの言葉で言ってしまえば、宝物とゴミ。宝物は価値があるから、みんなから大事にされて大切にされてそこらへんに捨て置かれることはない。反対に、ゴミは価値がないから捨てられて人目につかない場所に放り出される。
 宝物とゴミ。自分や他の誰かのこと、あるいは物や出来事などを宝物だと思ったり、ゴミだと思ったり、その中間のどちらでもないものだと思ったりするのがわたしたちの日常だと思う。いわば、自分にとって必要な物と不必要な物、宝物とゴミを分別することを誰に教えられたわけでもなく当たり前にやっている。
 自分のことを不要なゴミだと思えば、粗大ゴミに出して処分するかのごとく自ら死のうとするだろうし、他の誰かのことをそう思うなら、手で払いのけて「あっちへ行け」と言ったり、乱暴に扱う。価値がないのであれば、それはゴミでしかないのだから、ゴミ収集車の作業員がそこへゴミを放り込むような感じの扱いになる。宝物だったらそんなことはしないで大切に大事に扱う。ていねいにていねいに真心をこめていたわることだろうし、ゴミを放り投げるような扱いもしない。
 と、ここまで「いてもいなくても同じ」ということと、「宝物かゴミか」ということについてそれなりに考えてきた。そうしたら、やはりというか、見えてきたのが、その判断が主観的だということだ。いや、完全に主観的で一方的な判断だとさえ言える。

「そもそも、『いてもいなくても同じ』というのは誰にとっての『いてもいなくても同じ』なの? 『宝物かゴミか』というのは誰にとっての、誰から見た時のことを言っているの?」
「うーんと、それはね。みんなにとってのいてもいなくても同じだということで、宝物かゴミかということもみんなにとっての、みんなから見た時のことを言っていると思う」
「じゃあ、そのみんなって誰?」
「みんなっていうのは、たくさんの人たち、多くの人たちのこと」
「ということは全員、地球上にいるすべての人ではないんだよね?」
「そう。でも、良識ある世界中の多くの人たちだから彼らの判断は正しいと思うよ」
「その良識は絶対的なものなの? 良識があるとあなたが言うその人たちの判断は絶対に正しいの?」
「たぶん正しいと思う。多くの人たちがそう思って、信じているのだから」
「じゃあ、数が正義なの? たとえば、ないとは思うけれど、多くの人たちが高齢者、障害者、病人は目障りだから殺したほうがいいと思って、そのことに同意したらそれは正しいの? みんなが「殺せ」と言えばそれは正しいの?(たとえば全体の99%の人がそう言った場合) カリスマ的な独裁者に煽動されてみんながおかしくなっていてもそれは正しいと言えるの?」
「それが絶対的に正しいかどうかは分からないけれど、少なくともそう思う人たちにとっては正しいのだと思う。その人たちにとっての正義としては」
「ということは、そのみんなが言っている正しさは、みんなが正しいと思っているだけのことでしかないということだよね?」
「たしかにそうかもしれないけれど、神様とか絶対的な存在を持ち出してきて、その存在が正しいと言っているからこれは正しいんだと来られたらそれは正しいんじゃないの?」
「それも神様とか絶対的な存在にとっての正しさでしかなくて、仮にそういう絶対的な、人間が逆らうことを許されない正しさがあったとしても、それでもわたしはこう思っていて、これが正しいと思う譲れない、そのわたしにとっての正しさはあるんじゃないの? その人にとっての正しさ、その人にとっての善悪、倫理、価値、美醜、正義のようなものがあると思うんだけどね。それに、そういったものは置かれている状況や立場によっても変わってくると思うよ。たとえば、人がお腹をすかせていて、それも死にそうなくらいすかせていて、食べ物が何もない状況の時に、目の前を通りかかったウサギを殺して食べたとする。ウサギを殺すこと自体は殺生をしているから悪なのかもしれないけれど(大きな摂理などからしたら)、そのお腹をすかせた人にとってはそれは善で自分が生き延びるために必要なことをしたに過ぎない。でも、ウサギからしてみたらそれは激しい苦痛を伴って殺されてしまったのだから悪だ。いいか悪いかと言えば悪いはずだ。さらにその一連の出来事を通りかかった何人かの人たちが見ていたとしよう。そのうちの一人は完全な菜食主義者で動物の命は人の命と同じだと思っている。だから、ウサギを殺したことは人を殺したことと同じで決していいことだとは認められない。その人はウサギを殺した人を非難するはずだ。かと思いきや、そこにはまた違う考えを持った人もいて、その人は動物は魂のない機械のような下等なものだから、好き放題に痛めつけて殺していいという考えを持っている。むしろ、人はハンティング(狩猟)などを大いに楽しむべきであって、動物たちは人間が殺すことを楽しむために神様が作ってくれたものだとさえ思っている。」
「そう考えると、みんなが言っていることというのはそれが正しいかどうかとはまた別なのかもしれない。事実として、全体の何%の人がこう考えていて、また何%の人がそれとは別の考えを持っていて、さらに何%の人には特に支持している考えがない、ということはあっても、だから、『たくさんの人が言っているからこれは正しい』とはならないということだよね。それは事実から飛躍してしまっているから」
「そう。ただ、多くの人から支持されている考えがまったくでたらめかと言えば、そうとは言えなくて、多くの人から受け入れられているからには何かしらの理由と相応のそれなりの真実もあるはずだとは思う。とは言っても、大衆が煽動されておかしくなっていて正常な判断ができない狂った状態になっているということもあるかもしれないし、彼らを支配してうまく操るために教育などを受けさせないようにして、その結果、大衆が骨抜きの無知にさせられていて、支配者の言うがまま、なすがままになっているということもあるかもしれないから、必ずしもあてにはならないけれどね」

 ここまで分かり切っているような、とりとめもないような、そんな話をしてきた。自分でもくどかったと思っているくらいだ。
 さて、一番知りたかったこと、つまり核心にふれたいと思う。ここからがシメの結論だ。すごく利己的な奴だと思われるかもしれないけれど、ただ一点、わたしは自分自身にこう問いたい。

「わたしは宝物なのか、それともゴミなのか?」

 うーん、どっちなんでしょ? わたしのこれまでの40年ちょっとの人生の歩みの中で、ああでもない、こうでもないとグルグル、グルグルと考え続けてきたことはただこの一点だったのかもしれないなと思う。それだけにこの問いは非常に重くて、この問いへの答えにすべてがかかっている。ここでうまくいけるか、それともコケるか。うまくいければ生きていこうとするだろうし、生きていける。でも、コケたら死のうとするだろうし、死ぬだろう。
 うーん。宝物だと思えば宝物だし、ゴミだと思えばゴミなんじゃない? って、なんていう意表をつくテキトーな答えなのでしょう(笑)。でも、意外と真実というものはそのようないい加減でテキトーにしか見えないものなんだろうなと思う。
 キリスト教の神様だったら100%、「あなたは宝物です」と言ってくれると思う。「ゴミだから死ね」とか絶対言わない(信者をゴミ扱いする宗教ってあるのかな?)。でも、たとえその絶対の100%正しい(ということになっていて、されている?)神様が「あなたは宝物で大切な存在ですよ」とありがたいお言葉をかけてくれても、「いや、俺はゴミですから」「わたし、ゴミだから」とその人が自分がゴミであることに頑なにこだわってそのことを否定するなら、神様にとっては宝物であっても、それを拒む人にとってはゴミなのだから、両者の考えが相容れることはなくて、たぶんどこまで行っても平行線のまま。
 でも、一つたしかなのは、わたしも含めてみんなそうだと思うけれど、自分のことを宝物だと思いたいし、まわりからもそう思って認めてほしいし、そのように扱って欲しいということだ。わたしはゴミとして粗末に扱われたい。それこそ、わたしが本当に望むことで、ゴミ扱いされて、バカにされて、否定されて、ののしられて、傷つけられて、利用されることが幸せで幸せで仕方がないんだ。嬉しくて仕方がないんだ。これこそがわたしにとっての幸せで、最終的には絶望の果てに自ら命を絶つのが人生の目的であり理想のあり方なんていう人はまずいないだろう(いたら、ものすごい倒錯している)。
「自分は宝物だ。ゴミではない」。そのことを示そうとみんな一生懸命になっている。街へ出掛けたり、電車に乗ったりすれば、みんな自分を1ミリでも良く見せようとしていることが痛いほどひしひしと伝わってくる。自分はまわりの人とは違って個性的な存在だ。これが好きで、こういうことに興味があって、こういう思想や信条や考えを持っている。そのことを周りに見せて示したい。自分が好きな服装をして、好きなブランドのリュックサックやバッグなどを持ち、それには自分が好きなぬいぐるみやキーホルダーなどがぶら下がっている。
 以前、競馬が好きなのかお馬さんの小さなぬいぐるみをかばんにぶら下げていた女の人がいたのだけれど、その馬のぬいぐるみだって付けない方がかばんは軽くなる。じゃあ、何でそれをわざわざ重くしてまでも付けているかと言えば、競馬が好きな自分は個性的であって、だから価値があって、自分は宝物のように尊い存在なんだということをアピールしたいからなのだと思う。服装しかり、髪型しかり、趣味しかり。
 さらには、自分に価値があることをまわりに示すだけではなくて、他の誰かから「いいね。あなたは価値があって素晴らしいね。あなたは宝物のような大切な存在だよ」と認めてもらいたい。となれば、自分磨きをして自分に付加価値をつけようとするのは自然なことだろう。勉強、仕事、趣味、資格を取るなど、これでもかというくらいに自分の価値を高めようとする。また、他の人と自分を比べて落ち込んでしまうのは、自分よりも高い価値(であるかのように見える)の人が目の前に現れることによって、自分の価値が低くなったかのように感じてしまうからだ。結果的に自分がゴミのようにしか思えなくなってくるというのはよくある話だと思う。
 今、気付いたのだけれど、極端な話、どんなに自分磨きをして地球上でNo.1の人間になれたとしても、その自分のことをゴミだと思えばやっぱりその人にとってはゴミなのだろう。価値のない不要品だと思えば、どんなに優れていようが関係ない。世界で一番のスーパーコンピュータでも、ゴミだと思う人にとってはゴミだ(多くの人がゴミだと思わないとしても)。反対に、世界中の人たちが「あなたはこの世界で一番ダメな価値のない奴だから死んでほしい。ゴミ以下だよ」とののしって迫害さえしているような状況であっても、その当本人が「わたしは宝物だ」と思っているのなら、その人にとっては尊い宝物なのだろう。
 一般的には、「価値が高い人」というのは能力が高くて、人格的に優れていて、たくさんのお金を持っていて、強大な権力があり、高い社会的地位にある人のことだとされている。特に、はっきりとした基準が持ちにくいこの世界ではお金がまるで拝金教のごとく幅をきかせて我が物顔をしている。しかしながら、そういった価値観は多くの人が支持してはいるものの、すべての人がそう思ってはいないし、そういった価値の絶対的な根拠を示すことはできないだろう。となれば、誰かがその人、物、出来事などに対して自分勝手なジャッジをして価値が高いだの、低いだのと言っているだけのことでしかない。そして、そう言っている人がたくさんいるから、みんながこれを価値が高いと言っているからと、さも絶対的な価値であるかのように傍若無人に振り回そうとする。本当はいろいろな価値観があってもいいはずなのに。
 もしかしたら、目の前にあるものは宝物でもゴミでもなければ、そのどちらでもないものでもないのかもしれない。ただ、目の前にそれがある。いや、もっと厳密に言うなら、あるように見えるだけではないだろうか。あるように感じているだけではないだろか。その目の前のものにはもともと意味も価値もないし、なかった。それを見て、愚かなのか賢いのか、お猿さんのようなわたしたちが「これは価値がある、ウホ」「これは価値がない、ウホ」「これは宝物、ウホ」「これはゴミ、ウホ」などとジャッジして分別作業をしている。ただそれだけのことではないか。たくさんのお猿さんたちが「これは価値があるから宝物、ウホ」と判断したからといって、それはそれだけのことでしかなくて、そのお猿さんたちが神様ではない以上、その判断は絶対とは言えない。
 そして、究極的にはその目の前にあるものがちゃんと実在していて幻ではないという保証はどこにもないし、そのお猿さんたちにしても、彼らが住んでいるこの世界にしても実在しているかどうか、つまりはフィクションという虚構でないかどうかということは謎に包まれているのではないか、とわたしは今も病的なほどではないながらも疑っていたりする。まぁ、一言で強引に言ってしまえば神秘ってやつだ。不可解と言えば不可解だし、神秘だと言えば神秘とも言えるこの分からなさ。自分、他者、この世界という最も基本的なことが一番分からないし、不思議なヴェールに包まれている。
 宝物はその人が宝物だと思えば誰が何と言おうがその人にとっては宝物です。ゴミについても同様に、その人がゴミだと思えば誰が何と言ってもその人にとってはゴミです。わたしは宝物か否か? わたしが死ぬなどしてこの世から消えていなくなると、わたしにとってのこの世界も消えてなくなるような気がするので、まぁ宝物だということにしておきましょうか。これ、答えになっているようでなっていないような。暫定的に宝物だということにしておきますか、というのも少々冷めた物言いだけれども、どちらにしろわたしも(いずれは、先に死んでいった人たちのように)何らかの形で死ぬらしいから、死に急ぐこともないような。そんな気がしてきた。
 ちなみに、自分のことをゴミではないかと思って生きるか死ぬか思い悩めるそのこと自体が美しい宝物なのでは、なんて自画自賛したら気持ち悪いだろうか。「俺は宝物なんだぜ! お前らゴミはひれ伏せよ!!」なんていうことは微塵も思わないで「わたしは価値がないゴミなんです。生きている価値はないんです」と思えるこの美しいまでのへりくだりと謙遜、謙虚さ。これはとても美しいことなのかも。そんな自分は美しくて宝物のような存在なのかもしれない。そんな風に考えることもできるのでは、というのは蛇足だけれど案外言えるかも。
 くどくど、ぐちゃぐちゃ書いてきましたけど、根本的なところでわたしがこの世にとどまって死なずにいるのは、いられるのは、昔、わたしが死のうとした時に母が「あなたはわたしの宝物だから死なないで」と一言、悲痛な面持ちで真剣に言ってくれたからなのかもしれないなって改めて思う。ここは「言ってくれたからかもしれない」ではなくて「言ってくれたからだ」だろ、とツッコまれかねないところだ。断定したいところだけれど、他にもいろいろな要因が絡んでいたわけで……。言い訳してます。見苦しい。
 少なくとも神様と母がわたしのことを「宝物だ」と言ってくれている。たとえ自分でそう思えなかったとしてもそれだけで十分なのではないか。
 自戒の意味も込めて。

 いつかは死ぬ。死に急ぐな。

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