41日目
ネット断ち日記は34日目から始まっているはずなのに、どうして41日目なの、という至極もっともな疑問をお持ちだろうと思う。理由は、ちょっとその間、いろいろあって書けなかったというだけのことなので、深い意味はございません。ま、お許しを。
今日でこの生活も41日目だけれど、自分自身を今こうして眺めてみると変わったなぁって思う。変わった。これはホント。何より変わったのがお店の店員さんとお話できるようになったことで、すごく世界が広がったなって。これができるか、できないか。それだけで世界は大きく、それはそれは大きく変わってくる。なぜかと言うと、店員さんの知識を活用できるのってすごくメリットがあることだからなんだよね。
最近、わたしは洋服がほしくなった。どんな服かというとアロハシャツ。アロハシャツとか飛んでますねえ、って感じだけれど、とにかくほしくなったというわけなんだ。で、街のデパートへと行ってお買い物をしてきた。
ま、あのデパートへ行けば良さそうな物があるだろうと、直感だけで行ってみて、で、適当にメンズの服の階へ行ってみたら、すんごく良さそうな古着屋さんがあるでないの(行き当たりばったりのノープラン男ですな。でも、それがいいのよ)。古着だったら新品で買うよりは断然お買い得で安いし、その店にあるものを見る限りでは状態もいい感じでダメージもそんなにない。
で、お店に入りました。が、お店に入ったはいいものの、まずどこあたりにアロハシャツがあるのか結構広いので分からない。だから、店員さんをつかまえてどこにあるのか聞く。するとすぐにそこへと案内してくれる。が、またしても分からないことが出てくる。それは自分にはどんな感じのアロハシャツが似合うかどうかということで、自分のことって自分で分かっているようで分からないもの。だから、またしても横着と言えば横着だけれども質問する。「わたしにはどんな色が似合いそうですか?」って。すると、そのセンスがいい垢抜けた感じのイケてる店員のお兄さんが「青とか似合うと思いますよ」と返してくれる。そうか、青か。で、店員さんと一緒にどれがいいのか選ぶ。試着もさせてもらって選んだアロハシャツは黒のような、でも青っぽい黒のような、紺のような微妙な、でもすごくカッコいい色で、それに白地の柄が入っていてそれはそれはイケていてカッコいいシャツだった。しかも、中国、ベトナムなどの海外製ではなくて、れっきとしたメイド・イン・ジャパンの日本製。で、直感でいいなと思ってお買い上げ。しかも、2000円ちょっとのところが3割引きで1500円くらいになって、すごくいいお買い物ができた。このシャツを定価で買ったらこの3倍とか4倍くらいはしそうな感じがする。ユニクロだってこういう柄物のシャツはセールの時でも2000円はするし、と考えるとすごくいい買い物だったなって思う。
もちろん、ネットでお買い物をすれば、わざわざ街のデパートへ行かなくてもポチっとで終わってしまう。店員と煩わしいやり取りなどをしなくてもいい。だから、合理的と言えば合理的だ。でも、今の自分にどういう色が似合いそうかということはネットでは分からないし、洋服は実際に手に取ってみて、質感、大きさ、色の具合、実際に着た感じがどうかということが分かる。リアルのお店へ行ったからこそ、分かることやできることがある。それに、買うために試着する服の候補を店員さんに手伝ってもらいながら選んでいる時、何か楽しいなって思った。店員さんが「これはどうですか?」「これなんかもいいと思いますよ」と候補に上げてくれるのはどれもわたしに似合いそうな感じのものばかりで、これは機械のAIには難しいだろうなって思った。AIにたくさんのコーディネートがうまくいっている写真などを学習させれば、もしかしたらできるのかもしれないけれど、人間が直感的に「これ、似合うな」「似合わないな」と判断する感性のようなものには敵わないだろうと思う。
そして、お金を払う時にもその店員さんが対応してくれて、わたしは「いい服を選べました。ありがとうございました」とお礼を言った。そうしたらほとんど感情を顔に出さない感じの人だったけれど、ほんの少し嬉しそうな顔をしてくれて、一瞬、笑顔を見せてくれた。
その店員さんはわたしにお店のQRコードが印刷してある紙を見せて、接客や商品の満足度などの感想を送ってもらいたいと言う。それに対してわたしは「ネットをやってないんですよ」と答えた。すると店員さん、一瞬きょとんとしたような予想外の言葉に対応しきれていないような、そんな表情をしてみせた。で、さらにわたしは「ネットをやっていなくて、スマホも持っていないので感想は送れないですけど、すごく接客も良かったですし、いいシャツを選んでもらえて買うことができてすごく満足していますよ」とそのお兄さんに対して言葉を重ねる。そうしたら、またそういうことを普段言われたことがないのか、またしてもちょっと不思議そうな、照れくさそうなまではいかなくても、もう少ししたらそうなりそうな、そんな顔をした。
この店員さんに限らず、2ヶ月くらい前のことだっただろうか。街の駅の地下道で路上ライブをやっていたから、わたしは足を止めてその歌を聞いていた。平凡な感じと言えばそれで終わってしまうものの、その歌の歌詞がすごく繊細でそれなりに良かった。だから、わたしは投げ銭としてお金を入れた。
演奏が終わって、わたしはそのアーティストのお姉さんと二言三言、交流を持ちたいなと思って近付いてみた。そのお姉さんはわたしに名詞のようなものをくれた。その紙にはインスタグラムのQRコードが印刷されている。「フォローお願いします」と書いてある。わたしはそのお姉さんに少しばかり感想を伝えた。が、そのお姉さんの対応は東京仕様で都会の人だからなのか、とてもそっけない感じで、わたしが投げ銭をしたことに「ありがとうございます」と言ってはくれたけれど、「インスタを見てくださいね」と言っただけで会話らしい会話をしてくれなかった。
わたしがそのインスタを見ればそのアーティストのお姉さんのことはそれなりには分かるだろう。その人がどういう人で、過去にどこでどういう活動をしていて、どういう実績がある人なのか分かると言えば分かる。でも、そういう情報がほしいのではなくて、今、ここにいるわたしが、今、ここにいるあなた(アーティストのお姉さん)と時間を共有して、言葉をかわしたい。あなたの言葉を聞きたいんだ。インスタで公開されているあなたの昔の死んだ言葉ではなくて、あなたが発する生きた、たった今発する言葉を聞きたいんだ。それがたぶん、そのお姉さんには分からなかったんだろうな。それが何だかとても寂しかった。
音楽だってそうだと思う。別にただ聞いてほしいだけだったら、ライブとかコンサートなどをする必要はない。録音したものを聞いてもらえばいいだけのこと。でも、そうではなくて、今、そのアーティストがここで歌う歌を、今、ここで観客としてここにいるわたしが聞いて、そして相互作用によって化学反応さえ起こして一つの場を作り上げて、その時間を共有する。その営みがすごくいいもので、素晴らしくて、価値があるからライブやコンサートにわざわざ遠くからお客さんが来る。
と、いかにも順風満帆そのものでしかないようなネット断ち生活でありながらも、わたしはわたしでやっぱり精神障害者だからなのだろう。無菌状態、あるいは無風状態ではないこの世の中、社会だから時々、むしょうに死にたくなる。ネットをやめて格段に調子が良くなってきたけれど、それでも時々、死を思う。実行してそれが既遂になれば、もうわたしはこの世にはいない。だから、時々、死の綱渡りをしているんですよ。
わたしには精神障害の他にも吃音(きつおん)という言語障害も若干あるから、最初の言葉に詰まってしまってなかなか言葉が出てこない時がある(3~4秒の不自然な間)。そういう時、相手は怪訝そうな、ちょっと不思議そうな、「この間は何なんだろう?」、「この人、大丈夫な人かな?」と言いたそうな不穏な表情を一瞬する。でも、それならそれでいいとネットをやらないようになってから思うようになった。
初めてのお店、つまり、初めての場所。だから、そのお店の人は初対面で初めて会う人。そこへ、エイっと飛び込む。飛び込んでみる。その活力や勇気、度胸などのようなものがこのネット断ち生活を始めたことによって育ってきたと思う。最近では、古美術のお店へ行って店主から日本刀の話を聞き、日本刀はまさに武士の精神が体現されたものだから、まずは『武士道』と『菊と刀』の2冊を読むといいということを教わり、少し遠くの文房具屋さんへ寄ってたまたまそこにあった今年の花火大会(わたしがまだ行ったことのない)のポスターをきっかけにして会場への行き方と詳しい話を聞いたり、とすごく刺激的な日々を過ごしている。
でも、だいぶ人には慣れてきたものの、いい感じの気になるお姉さん(あるいは、素敵なおばさま)に声をかける(まぁ、ナンパです)のはとてもではないけれどまだできないなぁっていう感じなので、さらなる精進が必要。って、それ完全に煩悩だろ。それをなくしていくのが修行であり、精進だろ。何言ってるんだよ。いえいえ、わたしは真面目すぎてガチガチなので、もう少し軽い感じの軽薄男でもいいのではないかと。そして、男の色気でセクシーに女の人を誘惑してみようかと。ちょいワルの手前のワルまで行かないあたりでやめる感じがいいです。
最近、スーパーでお買い物をしていたら5~6歳の小さな女の子から目をのぞき込むようにしてかわいらしく「こんにちは」と挨拶されました(人生初の出来事)。また、女の人がすごく優しくしてくれるようになりました。これはいい感じになっているということなのでしょう。ネットをやめて、やらない生活になってから、そんな感じなのです。
目が大きくなり、きれいになった。ネットをやらないのが自然な姿なんだろうなと思う。ではでは、今回はこのあたりで。終了!!
61日目
61日目ということでネットをやらなくなってからもう2ヶ月くらいになるのかと不思議な気分でございます。と言いつつも、実はネットをまったくやっていないのではなくて、何回かやっております。ってオイ!! そこ、ツッコむところだけれど、まぁ、良しとしてほしい。ネットでないと買えない物だったり、明らかにネットで注文した方が楽な場合には(リアル店舗で買うためには何時間もかかるなど)こだわることなく母のスマホを拝借して……、ってそれ詐欺じゃないの? 最近、政治家が学歴を偽ってその大学を卒業していないのに、卒業したとか何とかあったけれど、わたしの場合には誰も困らせていないし、そうして事実と違うことを書くことによってお金を得たりはしていないから、OKですよね? ダメ? 潔癖性はこれだから困るんですよ。手を洗うのは多くても2回くらいまでですからね(何の話?)。
この2ヶ月を振り返ってみると、まぁ、いい感じだったと思う。ちょっと危ない感じになったこともあったけれど(最近、書いた「フラッシュバック」の記事参照)、いや、ちょっとじゃなくて結構危なかったけれども、リア充の高校生の男女の6人組に相当ムカつきましたけれども、捕まることもなく娑婆で、そして、自死を遂げることもなく、今こうしてブログの記事をつらつらと書けておりますのでありがたや、ありがたやなのです。
と言いたいところではある。って何か言いたいことあるの? 意味を含めたような言い方をしますけれど、実は昨日、久々にネットを長時間やってしまいまして。ネット経ち日記で長時間ネットをやってしまったことを告白するという学歴詐称より悪質な前代未聞の話ではあるけれども、やってしまったのはやってしまったので正直にここに書きたいと思った次第。
というのは、昨日、ブログの更新をするために物置からノートPCを取り出したのね。そして、ブログの更新をしました。そこまでは良かった。けれども、そこからガラガラガラ~、っという感じで崩れていってしまって、ダラダラとストリップチャットなるものを見てしまったわけでして。今のわたしの課題は何かと言えば、ヨガにおいては力んで力が入ってしまっているからリラックスして力を抜くことなのだけれど、それは置いておくとして(じゃあ、何で今それを言った?)、ネット断ちをするようになってからの課題は月に1回ブログを更新する時にそれからアダルティーなサイトを見始めてしまうことだ。で、2~3時間経って「ああ、自分は何をしていたんだろう。無駄な時間だった」と後悔する。そうならないようにすることがわたしにとっての現在の課題かなって思った。
ってことはもう少なくとも昨日の段階で、もうネット断ちはしていないし、断てていないのだから61日目ではなくて、今日がリスタートの1日目なんじゃないの、というご指摘やお叱りを受けるだろうことは重々分かっております。けれど、そうなるとまどろっこしくならない? というか、そもそも母のスマホでリアル店舗で買うことが難しい物や大変な物をネットで買っている時点で、ネット断ちはできていないわけだから、この「ネット断ち日記」という呼称は詐欺であり詐称だということになる。
う~ん。だんだん、グチャグチャ、グチグチしてきました。面倒くさいので、この話はこれで終わり。終了。強制終了。人的、物的、経済的被害は出ていないので良しとしてください。はい、終わり(とか言うなら最初からそういう話をするなよ、と自分でも思う)。
ネットをしない、スクリーンを見ない生活(だからHなDVDも見ていないのよ。てか、見れないのよ)をしているとね、いろいろなことに気がつくんだ。朝、街へヨガを習いに行くために電車を待っている時、多くの人がスマホの画面を見ている。ちょっと上を見上げれば、きれいなきれいな青い空があって、そこを雲がゆっくりゆっくり流れているのに、誰もそれを見ていないし、見ようとしないし、おそらくそのことにまったく気がついてさえいない。わたしはそれがすごく残念だなぁと思う。みんな、地上のことで忙しくて空なんて見ている暇がない。一心不乱にどうしたら1円でも得をすることができるか、どうすれば欲しいと思っている物や事を手に入れたり、実現させることができるか。そういうことをひたすら考えているように見えてしまうのだけれど、わたしの観察と推測は当たっているのだろうか?
ともかく、みんな空と雲を見ない。近くにいる鳥も見ない。ただ、スマホの画面を見ていて、自分の世界だけで完結している。それから一番損をしているのは、目の前のイケメンや美女を見ようとはしないことではないかと(笑)。
あと、余計なお世話かもしれないけれど、お兄さんやお姉さんたちに特に言いたいのは、それだけ髪型や服装に気合いを入れてお金を使っているのだったら、スマホではなくて顔を上げて現実を見たほうがいいんじゃないですか、ということ。じゃないともったいないと思うよ。無人島で自分一人しか人がいなくても今と同じ格好をするならもうわたしに言うことはないけれど、髪型とか服装に気合いを入れるのは、ゲスな言い方になってしまうけれども、他の人たちから「かっこいい」「かわいい」「きれい」「イケてる」と思われたいからなんでしょ? そして、その先にはたぶん生殖活動があって(おお、ゲスですな。でも、これがホントの話じゃないかと)自分の遺伝子を残したいというのがあるんじゃないの? 違うなら違うでもいいけれど、最新の眩いばかりのファッションに身を包んでイケてる感じに装いながら、まわりに無関心でスマホをひたすら見ているだけで、ブスーっとしているっていうのは、すごくもったいないとしか思えない。現にテレビにでているタレントやアイドル、俳優などでスマホを見ながらファンに語りかける人はいない。みんな、スマホを見ないで、いや、その時には、スマホ自体さえ持たないで、現実にしっかりと語りかけている。
と、少々お説教をしてしまいましたが、これをわたしが書いて伝えることによって、「星さん、わたしはこれからスマホの画面ではなくて、現実の空と雲とイケメンを見るようにします」と思う人がいたらいいなと思うので書いたわけなのです。流すなら流してください。聞き捨てOK。かまいませんので。
前の話に少し戻ろうと思う。そう、ネットを昨日やりすぎたという話に。ブログを更新するだけのつもりがダラダラやってしまったという話にね。
久々に長い時間やってしまって思ったことは、スクリーンを見てネットをやると疲れる。気持ち悪くなるような重い重い疲れ方をする。そして、そのスクリーンタイムのネットをやっていたのが寝る直前とか、少し前だと、もう眠りの質が低下して明らかに浅くなる。熟睡したという感じに眠れないし、目覚めも悪くて、何よりも朝起きた時に全然疲れが取れていない。その状態で一日がスタートするとしたら、そりゃあキツイ。ここまで饒舌に語っているかのように見えるかもしれないけれど、実は今日はこれでも体調がイマイチだった。今日はヨガも休みましたしね(ネットをやりすぎた疲れと、最近指の使いすぎなのか痛かったので)。
あと、最近こういうことも思うので反発されることを覚悟の上で書くと、「普通のことをしていたらたぶん普通の人なんだろうな」ということではないかと思う。別にわたしは普通は良くないから、奇抜な、みんなとは違うことをした方がいいとか、しなければならないと言うつもりはない。でも、みんながいいと思うものを流されるままに、自分ではいいとは思えないのに、いいと思っているかのようなフリをするのはどうかなぁとね、わたしは疑問に感じるんだ。
多くの人たちがスマホをまるで自分の体の一部であるかのように一日中、ほぼ離すことなく四六時中やっている。一方、わたしのようにスマホを持たないことを選択してそういう生活を送っている人も少数だけれどいる。どちらがいいのか? どちらが正解なのか? そんなことは死ぬ直前にでもならなければ分からないだろう。人生を終えようとする時にスマホと共に生きた生涯を良しとできるかどうか。それだけのことではないかと思う。あるいは、結局死ぬ間際になってもそのスマホ人生が正解だったのか分からないということもあるかもしれない。だから、自分のことはともかくとしても、人様にああしろ、こうしろみたいなことをわたしは強く言えない。でも、わたしは、正確にはわたしにとってはスマホのない生活、つまりはオフラインのネット断ち生活の方が調子は断然いいし、快活だし、合っているということだけはたしかだと個人的な感想を述べることはできる。だから、わたしにとってはこれが正解なんだろうなと直感が教えてくれているのだろう。
ネットを断ったオフライン生活は面倒くさいと言えば本当に面倒くさいけれど、その分、面白いなぁと思う。敢えて短所を言うなら、面白いものだからアクティブに動きすぎた結果、時間が足りなくなってしまったり(お店や施設などに行かないといけないからね)、疲労困憊で疲れてしまったりということくらいだろうか。やりすぎ警報発令中って感じですかね。やっぱり、やることが両極端なんだろうな。
と、最後にどうでもいい話。汚い言葉を使うならクソどうでもいい話をしてこの61日目をしめることにいたしましょう。
今から本当にどうでもいい、それもクソどうでもいい話をしますので、期待せずに流し読みしてください。
「最近、自分の見た目がAV男優のような感じになってきた。」
どうでもいいと思っていただけましたら、この下にはなくてあなたの心にある「どうでもいいボタン」を押してください。そもそも、「どうでもいいボタン」があるのかないのか、それを考えること自体がどうでもいいと思いますので、そう思っていただけましたら「どうでもいいボタン」をポチっと押していただけましたら、本当にどうでもいい限りで、そのことすらもどうでもいいです。
つまり、何を言いたいのかと言うと、ネット断ち生活をすれば断っているのにもかかわらず、前よりも勃つようになり元気になります、ということでして(「何の話をしてるんですか。場所をわきまえなさい。はしたないですよ」とPTAのおばさんに怒られそう)。スクリーンを見ないのがすごくいいんでしょうね。メンズで下半身を元気にしたい方はネット断ち生活をぜひ。それに加えて毎朝、ヨガなどの運動もできたら最高ですね。たくさん出るようになりますよ(!?)。
ではではこれで。以上、種馬通信でした。本日もお日柄が良く、たくさん出ました、出せました(だから、違うでしょ!!)。
81日目
あのねぇ、日記っていうものは毎日書くものなんじゃないの? 毎日書いてこそ日記でしょ。
たしかにそうかもしれないですが、大目に見てくださいな。別に悪気があっていたしたことではありませんし、これは故意ではなくて故意でしょう。つまり、故意です。わざとたまにしか書かないようにしているわけでして。相手をはめて陥れるための術策なのです。毎日書いていれば、そりゃあ毎日の日記を読者様が読めるわけですから、その日記の希少性がなくなってきます。だから、自分でこの日記の価値を高めるために術策を弄している次第で。「ワルよのぉ。そちもワルよのぉ」。好きなだけ言ってくれたまえ。ワルよのぉ。ワルよのぉ。ワルよのぉ。ワル……、だんだん気持ちよくなってきたでしょ。ならない? それは困りましたね。病気なんじゃないですか。つらいですね、それは。さぞかしおつらいことかとお察しいたします。
つまらない前置きはこれくらいにして、本題に移ろうかと思うのだけれど、準備はいい? 本題、か。と言いつつも、本題も何も全くノープランで、書いていれば何とかなるだろうという感じなので、何か素晴らしい感銘を受けるようなお話が聞けるのではないかと期待しないように。いや、期待してもいいですよ。わたくしは、期待を裏切らない男と見せかけて、しっかりと裏切る男ですから、そういう意味でしっかりと期待を裏切らないですよ。あぁ、何だかちょっとぐだぐだしてきましたね。では、本題に。だから、本題とかそういうのはそもそもないんだってば!! じゃあ、どうするの? 中身のない「賑やかし(亡くなった祖父がよく使っていたワードです)」をしててもらちが明かないでしょ。
では、本題に移りましょうか(本題、あったのね)。単刀直入に言います。言ってしまいます。
この世界はおかしいと思います。狂っていると言ってもいいのではないかと。
う~ん、精神障害の統合失調症の無職のおじさんにそういうことを言われてもねぇ。お前のほうこそ、おかしくて、狂ってるだろと多くの人たちは思うだろう。まぁ、立場とか肩書きとか置いといて、冷静に考えてみてよ。駅とか電車の中でみんながみんな、ほぼ全員と言ってもいいくらいみんなが、一斉に一同にスマホをやってるっておかしくないですか?
ネットをやらない生活をかれこれ二ヶ月ちょっと不完全ながらも(だから時々、たま~に破ってはいる)やってきてわたくしは悟ったのです。これは異様だ。ヤバイ。おかしいって。
って、怒った? 怒りました? でも、本当そう思いますし、思ってしまうんです。おかしいですよ、この当たり前の風景、光景は。
要するに、自分がタバコを吸わなくなってその期間が長くなってくると、吸っている人が異様に見えてくるというだけのことですけど、わたしにはね、異様というか違和感がひしひしと感じられるんだ。
何か、何か、気が付かないうちに、ほぼ一億総スマホ社会になってる。オイ。オイ。オイ。これはヤバイんじゃないの? これはもしかしたら将来、一億総スマホ認知症社会になるかもよ。みんな、スマホをひたすらやったばかりにボケちゃって、みんなで訳分かんなくなっているという未来。
でもね、スマホ認知症も怖くない。怖くないんだ。なぜなら、みんなが、それも過半数どころか大多数の人たちが認知症になってしまえば、それは認知症ではなくなって普通の状態になるから。みんなが認知症になってしまえば、逆にそうなっていない人たち(頭が冴えている人たち)が社会から爪弾きにされて問題だということになるんだろうなって思うよ。
みんな言わないけど分かってるんだ。スマホをやると、電子機器を使うと調子が悪くなってきてメンタルの状態が低下して、やる気もなくなってくるということが。
実際、わたしもネットをやるために電子機器のスクリーンを見ると調子が悪くなる。もちろん、人それぞれ、スクリーンタイムから受ける影響やダメージは異なるとは思う。人によってはほとんど影響を受けない感じの人もいるだろう。一方で、ネットを電子機器でやって画面を見てしまうと短時間であっても調子が悪くなる人もいる。人それぞれで個人差はある。でも、そうした電子機器を使って調子が良くなった人っているの? ネットをやればやるほど、気分が良くなって幸福感が高まってきました、なんて人いるの? ウォーキングやヨガや筋トレなどのように、それをやったことによって快調になった人とか聞いたことないけど、どうなの?
それに最近、新聞に載っていたことなんだけれど、子供たちの学力も低下してきているらしいね。それも大幅に低下しているとのことで。
そりゃあ、当たり前だと思うよ。ネットに浸かって毎日、毎日、ひたすら自分が好きな動画とかSNSばかり見ている子どもが勉強できるようになるわけないでしょ。ネットを長時間やっているせいで、勉強時間が減っているというのももちろんあるとは思う。でも、それ以上に、わたしには、こうしたネットに接続するための電子機器自体が人間の脳味噌をおかしくしてバカにしてるんじゃないのっていう気がしてならないんだけどね。
新しいテクノロジー(技術)が登場すると人はバカになる。これは人類の歴史においては定説らしい。というのも、文字が発明されて人はバカになり、それから印刷技術ができてまたさらに人はバカになった。で、しまいに現代ではネットができて、スマホができて、人はさらにおバカになりました、ということなんだ。
まず、文字がなければ書くことができなくて、とにかく今話をしていることが全てだから他に頼るものなどない。だから、その分、楽をすることができなくて現代人とは比べ物にならないくらい、いろいろなことを記憶していた。宗教の聖典は、キリスト教なら聖書だけれど、その聖書だって口伝でひたすら何世代にも渡って連綿と語り継がれてきた内容をしっかりと含んでいる。昔の人たちの記憶力は尋常ではなかったはずだ。
文字ができれば、書いた内容を見直すことができる分、その内容を真剣に覚えようとはしなくなる。便利にはなるものの、人間が楽をしていると言えば楽をしているわけであって、その分、人の能力は低下してくるだろう。書いてあるからそれをまた見直せばいいとなる。
それが手書きで、聖書で言うなら写本のように一文字、一文字、文字を書いて写し書きしていたのが、印刷技術が発達して大量に高速に同じ本を作れるようになると、本という外部装置にさらにもっと頼るようになる。暗記をして完全に覚えようとしなくていい、という勢いはさらに加速するわけだ。
そして、現在のこの世界と来れば、スマホさえあればどんな分からないことであっても、大抵のことは検索をすれば、瞬時に分かってしまう。専門家でなければ答えられないような難しいこともネットのAIに質問すれば、ほぼほぼ、それなりの答えを得ることができてしまう。となれば、もう既に頭のいいAIがいるのだから、何のためにそこまでして勉強しなければならないのという話にもなってくる。こういう便利すぎる世界になってくると、ほとんど記憶しようとしなくなるだろうし、自分で考えることもしなくなってくる。
その結果、現代の日本ではこういう人たちが増えているのではないかと。それは、ネットに適応している新しいタイプの人たちで、ひたすらネットにある情報を高速で斜め読みしていって、次から次に情報を手に入れていくスタイルを採用している人と言ってもいい。じっくりと時間をかけて考えるのではなくて、瞬発的に考えていくような感じだ。
つまり、便利になればなるほど、人間は楽をすることができるようになり、その能力も下がっていく。体も脳味噌も使わないで楽をさせていると衰えて機能が低下していくのはごくごく当たり前のことだからだ。
この調子でスマホやAIなどの機能をどこまでも高めていけば、より人間はバカになって、しまいには何もできなくなるだろう。目と指先とスマホの画面に瞬時に反応しようとする脳だけになってしまいそうで怖い。あとの部分は退化していって、深海魚が目が見えなくなったのと同じように、バランスの悪い人ができあがるだろうと言ったら言い過ぎだろうか。
最近、とても面白い光景を見たのでちょっとそれを紹介したい。携帯電話を持っていないわたしが日常的に家族への連絡手段として使わせてもらっている公衆電話なのだけれど、最近、この公衆電話を物珍しそうに、たしか友だち同士の若いお兄さん2人が電話のボタンをお金も入れずに遊びのような感じで押していた。たしかにそういう感じになると思う。生まれた時からネットやスマホがあるZ世代と呼ばれる人たちにとっては公衆電話というものは得体が知れない昔の日本の、言ってみれば博物館にあるような物なのだ(そもそも、スマホがある時点で公衆電話を使う必要はない)。わたしが博物館で、昔、洗濯に使っていたという、たらいや洗濯板を見るような感じと同じではないだろうか。
実際、わたしもバカになっているというか、衰えて無能になってしまっていると言えばその通りだ。なぜなら、わたしは、昔の人たち(それも相当昔)が当たり前にできていた火起こしができないし、川で洗濯もできないし、山で芝刈りもできない。お米や野菜を食べる分だけ作ることもできなければ、安全な飲み水を確保することさえできない。魚を自分で捕まえることもできなければ、その魚を自ら捌くこともできない。シカやイノシシなどの狩りをすることもできなければ、その動物をしとめた後の解体もできない。いや、それどころか鶏さえも自らの手で殺したことがない始末。
そう考えると、スマホを批判してどうのこうのと言っているわたしとそれを手放すことができずに依存してかかりっきりになっている人とでは五十歩百歩、どんぐりの背比べでしかないのかもしれない。そう、言うまでもなくわたしたちは本来の人間の姿から大きく外れてきてしまっている。それて違う方向へと来てしまっている。
人が原始的な生活をしていた頃にも今と同じくらいの人たちが精神疾患だったかと言えば、そんなことはないはずだ。夜、眠れないとか、昼夜逆転しているとか、ひきこもっているとか、気持ちが沈んで仕方がないとか、死にたくて仕方がないとか、そういう人も多少はいただろうとは思うけれども、現代と比べたらもっと少なかったのではないかと思う。
不眠症や昼夜逆転の状態になるためには、明かり(電気、電灯)がまず必要だ。人工的な明かりがなければそういった状態にはならないし、なれない。寝る前にスマホをやることが良くないというのは常識だけれど、このスマホだって人工的な明かりだ。この人工的で不自然な光を夜に浴びてしまうと眠れなくなるのだから、明かりであっても火の明かりしかなかった頃には不眠症も昼夜逆転もほぼなかったのではないかと。さらには、日中の活動レベルが低いと体が疲れていなくて眠れなくなるのだから、狩猟と採集で生活していた頃に運動不足になることが難しい以上、眠りにくくなることも難しかっただろう。あと、生活が昼夜逆転していなければ、太陽が沈んだら寝て、昇ったら起きるという生活になるから不眠症にもなりにくい(朝日を浴びて決まった時間が経つと人間は眠くなるようにできている)。
そして、しっかり体を動かせていて、眠れていればメンタルの状態は良くなるから、精神疾患にもなりにくいことは言うまでもない。
人工的な物であるパソコンやスマホの画面を一日中、食い入るように見つめていたらそりゃあ、調子が悪くなる。人間はそういう風に生きるようにはできていないのだから当たり前のことだ。その人工的な物を手放さず、いや、手放せず、かかりっきりになっているその様子がわたしには異様に見えて仕方がない。わたしの中の本能的な何かがこのネット断ち生活と毎朝のヨガによって目覚めてきたということではないかと思うのだけれど、わたしの感覚的な直感が「おかしくない?」と騒ぎ出しているのだ。
だから、電車でも時々だけれど、目がすごくきれいなネットをあんまりやっていない感じの女の子が電車に乗ってくると「いいなぁ。素敵だなぁ」って胸がときめくんだ。最近、特にそう。類は友を呼ぶってこと?
カモ~ン、ネット断ち女子のみなさ~ん。大歓迎ですよぉぉぉ!!! なんて81日目ですけど、それが感想です。イエーイ(!?)。謎だな、謎。
88日目
夏も近づく88夜~♪ てなわけで、今年も夏が近づいて参りました。今年の夏は何をしよっかな~!! 期待に胸を膨らませて、海にプールに花火大会にといろいろ予定を考えているところです。
と思いきや、ネット断ちを始めて88日目の今日は、夏の始めではなくてもう終わりなのです。88夜なんてまたうまいこと言いましたけれど、88日目の88夜でも、あと数日で9月。おいおい、もう夏も終わりじゃねえか。むしろ、花火大会は行ったものの、海もプールも行けずじまいで夏が終わろうとしているわけなのよ。しかも、8月の終わりのほうは風邪をひいて、ほぼほぼ寝ていた感じで無為に過ごしたので、うーん。寂しいです。
88日目にして思うことは、そうですねぇ。慣れました。何に慣れたかというと、スクリーンを基本的に見ることがない生活に。ネット断ち生活でありながら、スクリーン断ちのノンスクリーン生活をしている状態なので(入力端末のPomeraで文章を書くことを除いて)、テレビもビデオも見ていない。だから、テレビのニュース番組も見れないし、もちろん、お笑いやバラエティー番組も見ていない。で、困るかと言えば何にも困らないし、逆にスッキリ、サッパリとしていていいなぁって感じなので問題はない。
ただ、いくつか困っていることがある。それは、推しの広末涼子さんが過去に出演した映画などを見ることができないこと。他には、実は見たい映画が今、1本あるのだけれど、それも見れないからどうしようかなぁって思っていること。そして、最後に、これは決定的なのかどうなのかはともかくとして、HなDVDも見れない!!!!!!!!!!!!!!!!!(「!」を付けすぎだろ。そこまで見たいのかよ)
まず、広末さんが主演した映画「秘密」。あれをすごく見たい。いいんだよなぁ。19歳くらいの時に撮った映画なんだけど、劇中で広末さんがヨットをやっているシーンがあって、それがもう最高で。海があそこまで似合う女の子は当時、いなかったのではないかと思う。広末さんが海にいてヨット。しかも、当時まだ10代。いい画にならないわけがない。それをまた見たいのにノンスクリーンライフを始めてしまったばっかりに見れない。どうしたもんですかねえ、といろいろ考えてしまう。
次に、今、どうしても見たい、気になって仕方がない映画がある。それは宮崎駿監督の「崖の上のポニョ」。「えっ? まだ見てなかったの? かなり前のやつだけど」と言われても仕方がないくらいそこそこ昔のやつだ。でも、見た。見たのだけれど、見れなかった。見ようと努力してチャレンジしたのだけれど、結局、見れなかった。「??」でしょ? 意味不明だよね。どういうことかと言うと、映画が公開されて数年後くらいにDVDをビデオ屋でレンタルしてみたものの、何とディスクの状態が悪いらしくて、途中で止まってしまって再生できなかった。仕方がないからまた別のディスクを借りた。すると、また初回とは違う場所で止まってしまって最後まで見れない。で、三度目の正直と思って、また違うディスクを借りた。もうこれでダメだったらポニョをあきらめようと思った。で、見てみた。やっぱり、やっぱり、また今度も止まったのだった。普通の人だったらビデオ屋の店員に「途中で止まって見れなかったんですけど」と苦情を申し立てることだろう。けれど、当時のわたしは人と話をすることが苦手で言語障害の吃音もそれなりにあって、少々、対人恐怖症だったので無理だった。だから、何も言わないで(いや、言えなくて)同じ崖の上のポニョを3回も借りては返したのだ。ポニョを3回も借りるなんて、「この人はポニョが相当好きなんだな」と店員が気付いていたら思われていたかもしれない。そういうわけで、わたしは「崖の上のポニョ」を途中までしか見ていない。
このわたしがポニョを借りたビデオ屋はなかなか度胸が座っているお店で、前なんてもっと訳が分からないようなことがあった。もう10年以上前だっただろうか。わたしは「機動戦士ガンダム」のDVDを借りた。一度、一通り見てみたいと思ったからだ。すると、人気作でたくさんの人が借りたせいなのか、それとも誰か雑な扱いをしていた人がいたのか途中で結構止まってしまうことがあった。ポニョの時には途中で止まってしまって再生できなくなっても何も言わなかったわたしもガンダムとなればどうしても見たかったので店員に途中で止まってしまったことを申告した。すると、その店員が言うには、わたし(星のわたし)が現金で払った1枚100円のレンタル代のうち半額の50円を返金するとのこと。全話でたしか10枚くらいあったそのDVDのうち3枚くらいは途中で止まってしまったので、全部で150円くらいはお安く見ることができましたよ。ラッキ~!! って、50円の返金でいいにしてください、ってダメだろ!! 今思うと完全にごまかされてたし、はぐらかされてますよ。ビデオ屋だったらその問題のあるDVDを新しいDVDと交換して客が問題なく見れるようにすべきなのに、それはコストがかかるから50円返金で解決しときましょう、というやり方で実に抜け目がない(「客をなめてんのか」と言えなくもない)。
ガンダムのようなストーリー物で見れない回があるとどうなるか? 一番、もやもやしたのは、途中で主要な登場人物の一人が戦死してしまう回があって、その回が再生できなかったばっかりに、いきなり死んでいたのだ。話が唐突でつながらないし、訳分かんないでしょ。だから、わたしはその見れなかった分を想像力で補ってと涙ぐましい努力をしたのだった。今の若い人は、スマホで簡単に見たいものを見ることができるのが当たり前で、ましてや、通信速度が遅くなってしまって動画が止まることはあっても、まるまる一話見られないなんてことはないだろう。昔は大変だったのです。いろいろとね。
最後に、というか、一番問題として深刻なのはアダルトなお姉さんのビデオ(DVDやBlu-ray)が見れないことでありましょう。「これは死活問題です」かと思いきや、そうでもない。写真だけでもそれなりに満足できるようになり、かえって健康的になったくらいで、アダルトな映像をひたすら見ていた頃は刺激が強すぎたのだなと今では思う。アダルトサイトでポルノを長時間、浴びるように見ていたら、だんだんその刺激では物足りなくなってくるのは自然の摂理。
宮沢りえの「Santa Fe」という素晴らしい写真集(名作!!)を見ながら楽しむことができるのってすごく幸せなことだなぁって思う。男としてその写真を見ていると、気持ちが上がって高揚してくる(性的に!?)ことはしてくるのだけれど、しばらくすると単純に美しいなぁってまるで美術館にいるような気分になってくる。この感覚は連日のようにハードポルノを見ている人にはわからないだろう。
スクリーンで女の人(裸かどうかにかかわらず)を見ていた時には、外出をして街などで普通の女の人を見ても、彼女たちの光のような輝きが分からなかった。テレビの女優さんも含めて、スクリーンに出ている女の人たちはきれいすぎる。その輝きをさらに感じるためには、完全な性的禁欲をすればなお、いいのだろうけれど、それはわたしには無理で、やったらやったでおかしくなって捕まるだろうし、そこまでしなくてもいいと思って本などの写真だけは解禁にしている。
ところで、あるいは、でありまして、と、どんな接続詞を使ったらいいのか教えてください、という話ではなくて、ネット断ち生活をしてみて分かってきた決定的なデメリットをシメとしてビシッと暴露したいと思う。って、そんなことをしていいの? いいと思ってるの? わたしは許さないよ。でも、許すよ。いや、許して。わたしは正直だと思うから。ではでは、発表いたしましょう。ネット断ち生活のメリット今週の第1位は、
「元気になりすぎること」
です。
そこ、意味分かんないとか言わない。説明するからしっかり聞いておいてね。
そう、今までネットで無駄に消耗していたエネルギーが丸々残るから、元気になって、そしてものすごく活力が出てやる気も上がってくるものだから、元気になって油断するとやりすぎてしまう。そこが一番、デメリットというか気をつけるべきところだと思う。今回、わたしが珍しくも3~4年ぶりに高熱を出して風邪をひいてしまったのは、やりすぎてしまったからで、それだけハイになっていたとも言える。元気なものだから、この夏の炎天下の猛暑の中であっても何時間も歩いてしまう。だから、自分の体と心の声を聴かなくちゃなと思っているところで反省している次第なのです。この夏、ネットを断って元気になった。別人のように元気になった。そして、やりすぎてダウン。昔も書いたけれど、持続可能な生活をしていなかった。
つまり、ぼちぼちだな。ぼちぼちでいいんだなってこと。わたしにはできることしかできないし、できる量しかできない。だから、焦るなということでもある。どんなにとばして駆け抜けても、ゆっくり歩いても、死ぬときには死ぬし、どんなに先に行けてもだから何なんだとも言える。ぼちぼちか。
ネット断ちをしてその余ったエネルギーを有効活用する。そして、ぼちぼち着実に。まぁ、ぼちぼちいきましょか。

エッセイスト
1983年生まれ。
静岡県某市出身。
週6でヨガの道場へ通い、練習をしているヨギー。
統合失調症と吃音(きつおん)。
教会を去ったプロテスタントのクリスチャン。
放送大学中退。
ヨガと自分で作るスパイスカレーが好き。
茶髪で細めのちょっときつめの女の人がタイプ。
座右の銘は「Practice and all is coming.」「ま、何とかなる」。