妄想上等!!~広末さんが逮捕されて、野球の大谷さんが相変わらずチヤホヤされているテレビを見ながら精神障害者で無職の冴えないわたしが思ったこと~

いろいろエッセイ
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 昨日、衝撃が走った。母から「広末さんが逮捕されたらしいよ。ラジオで言ってた」と聞いた時には本当に稲妻が落ちたような感じだった。それから母のスマホで調べてみるとやっぱり捕まっているらしい。この事件、今、一番ホットな話題ではないかと思う。もちろん、アメリカのトランプ大統領の関税の話も重要ではあるのだけれど。
 不謹慎ではあるけれど、その広末さんの逮捕の報せを知った時にまず思ったことが「行っておけば良かった」ということだった。ってどこへ? そう、去年の12月に東京でライブをやったんだ。だから、そこへ行っておけば良かったと後悔している。もう当分、広末さんは見られない。またやるだろうと思っていて、生ヒロスエを見る機会を逃したのだった。わたしの夢。それは生で広末さんを見ること。同じ空間にいて彼女を直接見ることがささやかながらわたしの夢だったりする。
 時間が経つにつれて広末さんの事件の情報が増えていき、ぼんやりとではあるものの、どういうことが起きたのか分かってきた。そして、これからは薬物検査なども行うとのことで、その線の話ではないかどうかということも調べていくらしい。
 薬物検査もするということは、広末さんの様子に何か、いや明らかに不穏なところがあるのだろう。でなかったら、そんな検査は交通事故を起こしただけの人には普通はしないのではないかとテレビのあるコメンテーターが言っていた。これからその結果をめぐって話が展開していくことだろう。どうなるのか? 分からない。
 最近、わたしは、何か広末さんのやり方に実は少し反感を抱き始めていた。ファンクラブに入ろうかどうか迷ったのだけれど、会費が高い上に会報誌などを発行せず、ただネット上の会員専用ページに画像や文章などのコンテンツを公開するだけ。たしかにペーパーレスでエコなのかもしれないし、ものすごく合理的でスマートなのは分かる。でも、ファンだったら会報誌が欲しいじゃないですか。で、ネット上ではなくて紙で欲しい。そうした方が会報誌を作るための費用も必要なくて、郵送する必要もないのだけれど、どこか寂しい。
 とは言えども、昔、広末さんのファンクラブがあって会報誌があった頃にも、その会報誌はすごく薄くてどこか物足りなかった。もちろん、彼女の写真やコメントなどが載っているのだから嬉しいことには嬉しいものの、それでも寂しい気持ちになっていたものだった。
 彼女が新たに事務所を立ち上げてからというもの、いろいろなものが高額になっていき、その12月のライブは1万円を超える金額だった。だから、何だかなぁ。ちょっとなぁと思って新しいファンクラブにも入らず、ダラダラ、ズルズルしていたら今回の事件が起こった。
 この事件の速報を知りたいと思ったわたしは午後にテレビをつけてひたすら見ていた。すると、野球の大谷翔平選手の話ばかりやっているではないか。彼はすごいのだ。ヒーローなのだ。世界でもトップクラスの人なのだ。だから、その彼をワイドショーに出ている人たちはこれでもかとばかりに賞賛する。ほめて、ほめて、ほめる。
 ま、それは当然のこと。ほめた方がメリットがあるのだ。明らかにほめた方がいい。「長い物には巻かれろ」という言葉があるけれど、成功したり活躍している人を取り巻いてチヤホヤしてほめていればいいことがある。自分が大谷選手をほめれば、多くの人が彼に好感を持っているから、その多くの人たちからの好感をも自分に向けさせることができる。反対に自分が好きな人のことを批判したりけなしている人というのは、それだけで不愉快に思われて好感度が下がる。テレビの人というのはイメージ、好感度が命のようなものだから、大谷選手をけなすわけにはいかない。「大谷、稼ぎすぎだよ」「大谷、調子乗ってるなよ」「大谷、ムカツク」などと絶対に言ってはならない。そんなことを言えばそう発言した人の好感度が下がる上に、テレビの番組の視聴率も下がり、スポンサー企業と敵対することになる(大谷選手をけなしまくっているテレビ番組を見たいと思う人はいないだろう)。要するに大谷選手はみんなに利益を与えている。彼がちょっとCMに出てその商品をすすめれば、みんなが買う。そうすると、その商品が売れるわけだから、それを作っている会社が儲かる。その利益は波及していき広がっていき、たくさんの人に金銭的な潤いをもたらす。大谷選手が活躍すればするほど儲かる人たちがいて、その人たちからすればまさに神様のような存在。利益を次々に生み出してくれる打出の小槌のようなものだ。
 その大谷すごい、すごい、すごいの大絶賛しまくりのワイドショーを見ていたらだんだん気分が悪くなってきた。見る前には自分も頑張ってるじゃん、よくやってるじゃんと自分に対して穏やかな感じで思えていたのが急に揺らいできたのだった。そして、自分がカスでクズのように思えてきて仕方がない。こんなわたしのようなカス、必要ないし、いない方がいいのでは? 絶対的な成功者である大谷選手を前にして、自分が吹いて飛んでしまう塵やほこりのように思えてしまって、思えてしまって。生きている意味あるのかな、自分。
 やばい。テレビを切ろう。そう思った。このまま見ているとさらに悪化するだろうし、挙げ句の果てには死にたくなってくるだろうから。
 でも、今、冷静に考えてみると大谷選手は運が良かったのだ。運? どういうこと? つまり、彼が生を受けたこの世の中がこのような世の中だったからこそ、今こうして活躍できているということだ。まだちょっと分かりにくいかもしれない。つまり、もしもの話ではあるけれど、この世界で野球をやっている人たちのレベルが普通に大谷翔平レベルだったら彼は活躍できなかっただろうということ。そう、彼が活躍できるのは、全体のレベル(他の人たちのレベル)がその中で活躍できる程度に低いからだ。もしも、普通に草野球をやっている人たちが大谷レベルの剛速球をほとんど練習しなくても投げることができて、バッティングも現在の彼と同じレベルでできてしまっていたら、大谷選手がプロとして活躍するためにはさらに上のレベルでいなければならない。だかこそ、わたしは「運が良かったね」と思う。優れた人が活躍して賞賛されるためには、多くの人たちがその人よりも劣っている必要がある。だからこそ、少数の優れている人たちはむしろ自分よりも劣っている人たちに敬意を払わなければならない。劣っている大衆がいてくれているからこそ、優れている自分がトップに立つことができるのだから。
 それにどんなに野球が上手かったとしてもそのことに人々が価値を見出して認めてくれなかったら大谷選手はただの無職の人になる。誰もそのことに価値を認めないのだから彼にお金を使いたいとは思わない。結果、無職になる。あるいは売れない芸人ならぬ、売れない野球選手として貧乏生活を送ることになるはず。「野球? 何それ? 知らないし、そんなのできたって仕方ないよ。興味ないよ」とほとんどの人が思えばそれができても何も意味がない。ジャングルの奥地の○○族のような感じの人たちが暮らしている村に行って「わたしは世界的な野球選手です」と言っても「はぁ? 何それ?」で終わりだろうし、「わたしはこれだけお金を稼いできました」とアピールしてもそもそもお金がない社会では何も意味をなさない。それよりも大谷選手の体を見て「お前強そうだな」と野球とはあまり関係がないことの方がウケて価値があると思われる可能性の方が高い。それに誰もいない無人島(だから無人島)へ行って「俺は世界のオオタニショウヘイだ。トランプ大統領にも認められたVIPだ」と一人叫んでみたところでむなしいだけなのは分かり切っている。
 テレビのワイドショーは、ひたすら成功することやお金をたくさん持つこと、有名になることなどをほめたたえる。その基準からしたらわたしはカスでクズで、てんでダメで話にもならないヤツだということになる。でも、そのテレビが無責任に、まるで当然のことのようにまき散らしている評価基準、価値基準がすべてなのかと言えば違うだろう。違う基準から見れば、このカスにしか見えなかったわたしだって捨てたものではないことになるし、むしろ優れている場合だってある。お金を持っていなくてむしろたくさん借金していて、誰にも知られていない無名の存在で、やることなすこそ失敗だらけで人生どん底で毎日とにかく苦しくて、お酒ばかり飲んで死ぬことをひたすら考えている。こういう人こそ優れていて素晴らしくて誰よりも人として価値がある。ダメであればあるほど良くて、ダメであるだけ価値が高い。そういった価値基準で判断したらその人が誰よりも優れていることになる。根拠は? その価値基準が正しいという根拠は? そういった根拠は前のお金や成功していることに価値があって優れているという価値基準にもない。ただ多くの人たちがそれを信じていて、それがいいことで、そうであればあるほどその人は優れていると思っているだけのことでそれが正しいという絶対的な根拠は神様でも持ち出さない限り手にすることはできない。というか、その神様の絶対的な根拠も神様が思うところの根拠でしかないとも言えるけどね。
 となると、好き嫌いがあるというだけの話になるのかな? わたしを含めた誰かが、たくさんお金を持っている人が好きで、権力がある人が好きで、成功している人が好きで、それらとは反対の人が嫌いというだけの話で。だから、お金を持っていて成功している人が嫌いな人だっている。正しさも倫理も善悪もたぶん、どこまでも突き詰めていくと好き嫌いでしかないのだろう。そして、たくさんの人がそう思うことが価値があることで正しいことだとされているのがこの世の中だと思うのだけれど単純化しすぎだろうか?(だから誰かを殺すことでさえもみんなが同意して認めればそれは正義で正しいこととしてまかり通ってしまう。こわいな)
 テレビ番組はお金と成功と権力に価値を置く人たちが作っているものでしかないと思う。儲けていくためにはその方向性で進むのが一番手っ取り早いし、無視できない。だから、そのテレビの価値観を鵜呑みにしなくてもいいのではないか。自分には自分にとっての価値基準があっていいと思うし、そのテレビの基準を真に受けて自分をダメなヤツだと裁かなくてもいいような、そんな気がしてきた。所詮、それはテレビの、言ってみれば多くの人が認めている価値観、判断基準でしかない。自分には自分の、大事にしたい大切にしたい価値や判断基準がある。だったらそれでいいのではないか。それが反社会的なものでない限り、どのような物差しを持とうと各自の自由だ。
 逆に、金、成功、権力といったものしか見ようとしない、見えていないのって本当つまんないと思う。清貧や慎ましい暮らしや無名の人として生きることにだってちゃんと価値はある。社会的に成功した人とみなされている広末さん(「さん」ではなくて「容疑者」と言った方がいいのか?)と大谷選手とを静かに見つめながら、わたしはこんなことを思ったのだった。
 負け犬の遠吠え? というか、勝ち負けの基準は誰が決めたの? 誰がそう思っているの? 根拠は?
 そんなものはない。好き嫌いがあるだけで。みんながそう思っているとそれが正しくてすべてであるかのように思えてしまうだけ。妄想上等。

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