苦しくなる時はどんな時だったのかと過去を振り返ってみると、やっぱり人と比べてしまっていた時ではないかと。あなたもたぶんそうじゃないかと思う。大抵、落ち込む時というのは人と比べている時。
よく知識人を含むある程度教養のある人たちは皆、口を揃えたかのように「自分は自分で人は人ですよ」と言う。分かっている。分かってはいるのだけれど、どうしても比べてしまう。そして、落ち込む。じゃあ、どうしたら?
星さん的回答としましては、こういう形でブログの文章を読んでもらっていて何ですけれど、ネットを極力、見ないようにして距離を置くことですな、と答えるのが一番的確ではないかと。これに始まり、これに終わると言っても過言ではないかとさえ思う。
ともかくこれが一番手っ取り早い。だいたいみんなスクリーンタイムが長すぎる。5時間とか6時間(いや、もっと?)も見ていたらそりゃあ比べまくりでしょうし、メンタルは下がります。その5~6時間、いわば何かの情報にふれているわけで、それはおそらく自分以外の他の人の情報だと思う。SNSなんていうのは誰々がどうした、こうしたという情報ばかりだから、それを見ていたら自然に普通の流れとして自分と比べてしまう。で、あぁ俺はしょぼいな。わたしはダメだな。俺全然カッコ良くないな。わたし、全然かわいくないな。と、とにかくネガティブモードに突入する。あるいはその見ている情報が人についてではなく物についてだったとしても、もっとあれがほしいな。これがほしいな。自分にはこれが足りないなとばかりに持っていない物ばかりが気になってしまう。
みんな人それぞれ、人生の進み具合は違う。到達しているレベル、場所はいろいろだ。はるか先を進んでいる人もいれば、始まったばかりのところにいる人もいる。たとえばわたしが今、山の標高100mのところにいるとしたら、はるか先の標高5000mあたりを登っている人もいるということ。で、今100mのところにいるわたしが「あの人ははるか先の5000mのところにいる。わたしは何てしょぼいのだろう。ダメなのだろう」と比べて気持ちを落ち込ませたとしてもほとんど意味がないのは言うまでもないことだろう。そのはるか先を進んでいる人をうらやんだところで、自分のいる場所が100mから1000mになるわけではないし、せっかくこの100mまで一生懸命登ってきたのにやる気を失って進むのをやめてしまえば、現在の場所から何も進まないからだ。
いや、それだけではなくて、わたしは裕福な家庭に生まれなかったし、生まれつき頭だって良くないし、容姿もあまり良くないし、運動神経もいい方だとは言えない。。だからこそ恵まれている人たちと比べてしまうし、自分はダメなんだと思う。そう思わない方が難しいんじゃないの、と思う人もいることだろう。
たしかに徹底的に不平等で理不尽でさえあることは事実だとはわたしも思うし、感じている。同じ山を登っているのに、身体能力や持っている装備があまりにも違いすぎるからだ。ある人は普通の服しか持っていないのに、恵まれている人は登山用の高級なウェアを持っているし、靴だってサンダルしか持っていない人もいるかと思えば、これまた山登り専用の靴を持って快適に登っている人もいる。身体能力においても生まれつき丈夫で頑健な足腰の人はスイスイ登っていくのに対して、あまり足が丈夫ではなくてちょっと登るだけで足が疲れてパンパンになってしまう人もいる。いやいや、ウェアとか靴などの装備や足腰とかそんなレベルではなくて、ある人が徒歩で登っているのに、恵まれている人はその人専用のロープウェーに乗って何の苦労もなく山頂近くまで行ってしまう。あるいは自家用ジェットとかヘリコプターを持っている人だったらこれまた何の苦労もなく頂上に一っ飛びだ。
でも、そういう登り方をして山頂付近や山の頂上に着いても嬉しくないはず。なぜなら過程がほぼないから。逆に歩みが遅くてしょぼければしょぼいほど、同じ所まで進むのにも時間がかかって苦労するから喜びもひとしおだ。当たり前だけれど、ほとんど何も苦労しないで手に入れたり達成したことはあまり嬉しくない。そう考えると、恵まれている人というのはある意味、不幸なのかもしれない。
これと同じように、わたしはヨガをやっているのだけれど、もう体が本当にガチガチで硬かった。始めたばかりの頃は普通に前屈しても手が足先まで届かない。でも、それだったからこそ良かったと今では思う。なぜなら、最初から柔軟性があって身体能力が高かったら、どんなポーズも簡単にできてしまって喜びもほどんどなかっただろうから。
また、さらに言うなら、山頂に向かって進むことがすべてではないともわたしは思う。スタート地点付近をウロウロして行っては戻って、行っては戻ってを繰り返して、その結果あまり進まないで終わるというのもありだからだ。100m登った人。1000m登った人。2000m登った人。もっと先まで進んだ人。それぞれその地点にはたどり着いた人にしか見ることのできない何かしらの景色がある。でも、だからそれが何なんだとも言える。人は2000m登った人やそれ以上の人たちを賞賛して「すごい」と言うかもしれない。でも、それはそれだけのことでしかない。わたしは何も、努力して高い地点までたどり着いた人をこき下ろしたいわけではない。わたしが言いたいのは、どこまで進むかは自分次第で自分で決めればいいという至ってシンプルなこと。
こんな風に人生を山登りに置き換えて考えてみると、人がどうしたとかこうしたとかどうでも良くなってくるのではないかと思う。わたしはわたしで、人は人。身体能力や装備が違うことはもちろん、徒歩で登っている人もいればいわゆる反則技(ロープウェーなど)を使っている人もいるくらいなのだから、別に他の人と比べる必要はない。ただ比べるのだとしたら、過去の自分と比べてその時よりも先に進めていたら良しとする。
優れている人たちと比べたら自分はとてもみすぼらしくてしょぼく見えるけれど、だから伸びしろはあるのだし、その分努力して苦労しなければならないから達成した時にはその優れていて簡単にできてしまう人たちよりも大きな喜びを得ることができる。
ネットから距離を置いてスクリーンタイムを減らす。そして、自分を見る。それだけで人生が好転すること間違いなし。
でも、そうしたらこのブログのアクセス数が増えないし、むしろ減ってしまうのでは? ま、それならそれでいいと思う。ただ、スクリーンタイムを減らしたらどうかとは言ったけれど、ゼロにしろとは言ってないからね。ここ重要よ(笑)。だから、「星さん.net」だけ見てあとは見ない、と。うん、そうすればいいと思うな。ってこれは蛇足でした。いらん蛇足ですね。

エッセイスト
1983年生まれ。
静岡県某市出身。
週6でヨガの道場へ通い、練習をしているヨギー。
統合失調症と吃音(きつおん)。
教会を去ったプロテスタントのクリスチャン。
放送大学中退。
ヨガと自分で作るスパイスカレーが好き。
茶髪で細めのちょっときつめの女の人がタイプ。
座右の銘は「Practice and all is coming.」「ま、何とかなる」。