重い人

いろいろエッセイ
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 わたしの自己認識。自分をどういう人と思っているかと言うと、重い人。最近はそれでもサッパリとしてきたけれど、それでも重い。
 重い人の特徴は、まず自分の話が長い。と言いつつも、何もわたしは誰かに自分の話を延々と1時間とかそれ以上したりはしない。じゃあ、どうして話が長いと言えるかというと、そう、文章が長いんだ。
 最近、失敗をしてしまった。もう15年とかそれ以上の付き合いとなる精神保健福祉士のWさんに送ったメールが尋常でなく長かったのだ。その文字数、何と6000文字あまり。メールで6000文字とかやっぱり普通じゃないよなぁ。悪いことしたよなぁ。自分語りしすぎたよなぁと今、地味に反省しているところなのです。
 話が長い男、異様なほど長いメールを送る男。いやはや、モテませんよ。というか、過去に自殺未遂までした男の重さはそうそう軽くはなりません。抱える重さのようなものがあるからこそ、そういった所まで進んでやってしまったわけで、重くない人が未遂なんてしないのは言うまでもない(いや、軽すぎてフワーっと風が流れるように死んでしまうのはあるかも)。
 ある初対面の髪が黄色い若い女性から言われました。「あなたは何か抱えていますね」って。み、み、見抜かれてる。直感的に何かそのわたしの暗さというか、抱えているものや背負っているものをその人は感じ取ったようで、図星。図星も図星の大図星。なんて、ふざけている場合ではない。
 精神科の外来へ行くと、いつも何か特有のネガティブオーラをそこに来ている人たちから感じる。わたしにもきっとそのネガティブな空気のようなものがしっかりと残っていて、その匂いのようなものをそのさきの女性はきっと感じ取ったのだと思う。でも、わたしが仮にそうした空気をまとっていたとしても、それがわたしなのだから仕方がないと言えば仕方がない。それでも一生懸命やってきたんですよ。死なずにここまでね。
 わたしが先日、長すぎるメールを送ってしまってから、ちょっと考えたことがある。わたしは精神保健福祉士のWさんに何を求めているのだろう、と。
 彼女に一体何を求めているのか。そう考えると何なんだろう、と分かったような分からないような感覚に襲われる。わたしは彼女に承認を求めているのだろうか。いいね、すごいね、素晴らしいです。そうした言葉をかけてもらいたいのか。そして、そういった承認をしてくれるから、その彼女の承認ほしさに彼女との関係性を保って維持しようとしているのか。あるいは、彼女にわたしは自分の話を聞いてほしいのか。話を聞いてもらって「うんうん、そうだね。そうだったんだね」とうなずいてほしいのか。はたまた、彼女の精神保健福祉士というプロの立場からの助言、アドバイスがほしいのか。いわば、ワーカーとして、わたしとしては利用者として彼女に相談したいのか。
 これらのうちのどれなのだろう、と考えてみると、わたしの中ではこれらが混じり合っているようで、割合がどれくらいかは分からないもののミックスされている。
 人はみな、相手に対して役割期待を持つ。つまり、相手に何らかの役割を求めていてその役割に沿う行動を求めているということだ。たとえば相手に話し相手としての役割期待をしている時には、別に自分の肩をもんでくれなくても何とも思わないだろう。でも、その役割期待が肩をもんでマッサージしてもらうことだったら、もんでもらえないと不満になる。
 ということはだ。きっとわたしがあの長文メールをWさんに送ったのは、わたしのことを深く理解してほしかったからではないのか、という風に思えてくる。そして、理解してもらえた上でできれば深い承認もしてほしかったのだろう。
 こうした重いコミュニケーション様式が一般の女性から敬遠されるということは分かっている。なぜなら、言うまでもなく自分のことを分かって分かってばかりで相手のことを分かろうとしていなくて、気遣いや気配りが足りないからだ。相手を気遣ったり心配する言葉などほとんどなく、あるのはただ自分が分かってほしいという自己中心的な態度だけ。相手に興味がない、関心がないということ。こういう男がモテないのはもっとも。守るどころか無関心なのだから。
 自分の話を延々としたり、一方的に長い文章を送りつけるというのは、自分で言うのも何だけど成熟できていないのだろう。自己中心性から脱却できていなくて、とにもかくにも自分ファースト。わたしの自分ファーストは完全なものにはなっていなくて、そこまで自己完結的ではないものの、やっぱりそういう感じはいまだに拭いきれていなかったりする。別の言葉で言えば、余裕がないということ。自分がいっぱいいっぱいの人は相手のことや周りのことを気遣うだけの余裕なり余白のようなものがないから、その狭い視野に入る自分のことだけしか考えることができない。本当の意味で成熟して大人になるということは、自分ファーストから他の人に対しても十分に意識や関心をむけることができるようになることではないかと思う。だからこそ、わたしがわたしがのような俺様的な感じの人というのは幼く見えてしまうのだ。そう考えると徹底的に自分がやりたいことだけをやるのが時に批判されるのがもっともだということも分かってくる。
 こんな重いわたしではあるものの、現在軽量化している最中で、一番重かった時と比べればかなり軽くなったとは思う。ヨガの師匠が道場に来る練習生たちによく言うことが「とりあえずやってみよう」で師匠、軽快だなぁ、身軽だなぁと見習うことにしている。重い人ができなかったり、苦手なことはなかなか行動に移せないことで、いかにフットワーク軽く生きることができるかどうかは大きい。そして、重い人が必ずやってしまう他者にもたれかかって依存するような態度もヨガの練習をすることによって、自分でしっかりと立つことができるようになっていく(らしい)。何せ、昔のわたしは不安だからと言って、今道場がある街(その当時はもちろん道場とは何の関係もなかったけれど)に電車で一人で行くことさえできなかったくらいなので、それを思えば成長しているし、身軽にもなってきているのだと思う。でも、まぁ根本的なところというか、今まで長年やってきた人との関わり方はなかなか直らない。仕方がないよな。他者に依存してきた期間の方が圧倒的に長いのだから当然だ。
 口を開いて何かを言えば、わたしが重い人だということはすぐにバレてしまう。けれど、その重さに魅力を感じてくれる人も過去を振り返ればいた。重いということは逆に言えば、慎重で手堅くて真面目でミスが少なくてきっちりとしているということ。飲み会や宴会などで音頭を取ってムードメーカーとして大きな声でにぎやかに場を楽しく盛り上げることはわたしにはできない。でも、その中で控えめに穏やかな感じで静かな空気を放っていることはできるのではないか。それがわたしの持ち味なのだとしたら、重くてもそれはそれでいいのかもしれない
 そう自分自身を認め始めると、何も万人ウケしなくてもいいかもなとも思えてくる。本当に数少ない人であっても、わたしと合う人と付き合って親交を深めて楽しい充実した人生を送ればいいだけのこと。少なくともWさんはこの重いわたしに魅力を感じてくれているようで、世の中捨てたものではないなと思う。でも、6000文字は長いよ。Wさんは仕事ができて責任ある立場にあってとても忙しいのだからなおさら6000文字の長文メールは思いやりに欠けている。反省、反省なのです。
 と、この文章も気付けばただ今3000文字を少し超えました。超えてしまったところです。やっぱり長い!! つまり、重い。って長いよ、アンタ。ぐすん、反省。

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