動物園へ行ってきて考えたこと

いろいろエッセイ
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 先日、動物園へ行ってきた。静岡の動物園と言えば日本平動物園でしょ。東静岡駅から歩いてようやくたどり着きました(普通はバスとかに乗って行くけどね)。
 その日は土曜日でみんながお休みの日。お休みともなれば、小さな子どもを連れた家族でにぎわうわけでして、その中、一人、ぼっちの中年男のわたくしがいる、みたいな構図でした。はっきり言うと浮いてたね、ハイ。
 それはともかくとして何年ぶりの動物園なのだろう。かれこれ10年以上は来ていないような。いや、もっとか。そんなわけでものすごく新鮮だった。
 久しぶりの動物園で動物たちを見てまず思ったことが、彼らの目に元気なエネルギーのようなものが感じられなかったこと。わたし自身がヨガをやるようになって、そうした相手の活力、いわばエネルギーのようなものを感じることができるようになったせいか、昔には気付かなかったことに気付けたようだ。
 特に人間に近いお猿さんたちからその生気のなさを感じた。そりゃそうだろう。だって、狭い檻の中に入れられて、さらには人間たちの好奇な眼差しに長い時間さらされているような生活が何年も続いているのだから。ひたすら檻の中で自然の中を駆け回ることができない。牢屋の中に閉じこめられていて、本当は一人で静かにじっとしていたい時だってあるだろうに容赦ない視線を浴びせられる。プライバシーとか何もないのは言うまでもない。
 そして、大人になってわたしはそれなりに文章を読めるようになったので、園内に掲示されている動物についての説明だったり、その他いろいろ書いてあるものがとても興味深く感じられた。そうした説明の文章を家族連れの、わたしよりもおそらく若いお父さんとお母さんはほとんど読もうとはしない感じでほぼスルーしていた。それをわたしは真面目に読む。
 そうした説明を読んでいると動物園側の言いたいことがだんだん分かってくる。それは「もっと地球環境を大事にしようよ」という切実なメッセージで、シロクマの所では地球が温暖化してきて北極(か南極。どちらかは忘れた)の氷が溶けてきて、シロクマに多大な影響が及んで困っているということが書いてあった。動物の中には人間が乱獲したせいで絶滅したり、しそうになっている種もあるらしい。
 環境保護か。地球に優しく、か。わたしはそうした展示を見ながら何年も前にある哲学者が言っていたこんな過激な言葉を思い出していた。「環境保護云々言うなら人類がいなくなればいいのではないか。滅べばいいのではないか。ましてや、子どもを作るなんてことは論外だ」というようなことを本に書いていた。しまいにはみんな死んでいけばいいみたいなことさえも本の中で言っていて、その言ってはいけない的を射すぎている言葉に当時のわたしは凄まじい衝撃を受けたと同時に当惑さえした。身も蓋もないってこういうのを言うわけだよ、ホント。
 また、わたしが1年間ほどヴィーガン(完全菜食主義。動物製品は一切使わない)をやっていて、そうした本も少しは読んでいたこともあって、ヴィーガンの人たちが動物園に反対するその気持ちが実際に来てみて分かったような気がする。彼らから見たら動物園の人たちというのは、何の罪もない動物たちを捕まえて檻の中に閉じこめて見せ物にして金儲けをしているようにしか見えない。どんなに動物たちのことを思いやってその動物の生息地に近い環境にしても、餌などを工夫して自然に近いものを用意しても、その他いろいろな配慮をしても、本当に動物のためを思うのであれば自然の中にいさせてあげるのが一番なのではないか。例外として、絶滅しそうになっていて保護するのはまぁ分かるけれど、そうではないとしたら檻の中に入れる必要などないし、それこそが動物たちへの本当の思いやりではないかとわたしは思ってしまう。
 さて、動物園の中で一番見て面白かった動物の話をしたい。日本平動物園と言えば、レッサーパンダにシロクマでしょ、と思うだろう。彼らがいわばこの動物園の看板のような存在だということは誰しもが知っている。でも、もっと面白い動物がいましたよ。おりましたよ。最高に面白い動物が。もうカメラをどうして持っていかなかったんだろうと後悔、後悔しております。それくらい面白かった。いや、面白すぎて笑いをこらえていたくらいだから(って「面白い」の意味違うのね)。その最高に面白かった動物っていうのがね、「ヒト」なんだ。
 ヒト? つまり、人間? そうヒトなんだ。日本平動物園にはヒトの檻がある。その檻は出入り自由になっていて、入園者が入ることができるようになっている。で、鍵がかかっていないそのフリーな檻に外国から来た観光客の若い男の人が入ったんだ。それが何かもう面白すぎて吹き出しそうになりました。別にその人がゴリラっぽかったとかそういうことではなくて、その「ヒト」の檻から人間も地球に生きるただの動物でしかないことがビシビシ伝わりすぎてかえってそれが強烈すぎておかしい。そんな笑い。ブラックな笑いというか何というか。
 人間も所詮は、なんて言ってしまっていいのかはどうかは分からないけれど、「ヒト」という一つの種でしかない。さらにはそのヒトの檻の前にある動物の説明には、集団で平和的に暮らすことを好む。しかし、地球を脅かす可能性もある、みたいなことが書いてあって(メモしてくれば良かったなぁ。すごくその文章が的確で核心をついていた)、動物園は多分このことを伝えたいんだろうなって思った。人間は思い上がっているんじゃないか。自分たちも一つの種であり動物でしかないことを忘れているのではないか。そんな厳しい声が聞こえてくるような感じがした。
 と真面目な話はこれくらいにして最後にちょっとした小話を。印象に残ったことをいくつか紹介してこの文章を終わりにできたらと思う。
 園内の展示室にでっかいゾウさんの骨が立ち姿でまるで恐竜の化石か何かのように鎮座しているのがとても印象的だった。そのゾウさんはシャンティという名前で数年前に亡くなっている。そのシャンティの逸話がなかなか面白かった。何とそのシャンティは昭和40年頃に浅間(せんげん)神社に行っているらしい。歩きでたしかお正月(だったと思う)にお参りに行ったそうなのだ。ソウが動物園を飛び出して、お正月に神社にお参りとか今では考えられないし、信じられない。マジですかと思った。この、物事に対してとやかく言わない昭和40年代の大らかさに圧倒される。ちなみに行きは歩きで神社まで行ったようだけれど、帰りは途中トラックに乗ったとのこと。にしても、すごすぎる。この逸話すごいですよ。
 さらにそのシャンティはインドのマイソールから来たという話もすごくわたしにとっては興味深かった。インドのマイソールという街はそう、わたしがやっているアシュタンガヨガの発祥の地であり、いわば聖地なのです。
 そのマイソールから連れられてきて今は骨となっているそのゾウのシャンティの前にその地に憧れと畏敬の念を抱いているわたしがいる。これは何かすごく奇跡的なことではないかとさえ思う。その地へわたしが行くかどうかは分からないけれど、すごく不思議なつながりのようなものを感じたのだった。と思うのはその日、動物園へ行こうなんてほとんど思っていなかったからで、何となく、ただ何となく行ってみたいなぁという感じでブラブラしていたら行ってみようになり動物園へとたどり着いた。シャンティがわたしを呼んでくれたのだろうか。あと、シャンティという名前がすごくいい。「シャンティ」とはサンスクリット語で「平和」という意味で、ヨガをやっている人ならみんな知っていて大好きなワード。アシュタンガヨガのクロージングマントラ(ヨガの練習を終える時に唱える言葉)では最後に「シャンティ、シャンティ、シャンティヒー」と唱えるくらいだからまさに必須で大切な言葉だということが分かるだろう。
 それから日本平動物園には現在キリンがいない。昔来た時にはいたのに、今はいなくなっていて寂しかった。キリンが食べていた高い葉っぱのついた木がぽつんと取り残されているようで何か寂しげだったよ。
 動物園に来てみて、環境保護について考え、今は亡きゾウのシャンティを通して平和に思いを馳せる。そんなかけがえのない時間だった。平和とは何なのか。どうするのが、どうなっていくのが平和なのか。平和はやはりわたし自身の中に、内側へと向かっていく中でしか得られないものなのか。
 今回おそらくわたしはシャンティに招かれたのだと思う。行き当たりばったりの小旅行でさえも大きな力や存在によって導かれているように思えてならない。ゾウのシャンティに感謝しつつ。人生の究極の目標は平和なのだろう。そんな気がする。

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