働きたいと精神科の主治医に相談してきました

いろいろエッセイ
この記事は約7分で読めます。

 今日、精神科の外来へ行ってきた。またどうしたの? 調子でも悪くなったの? いえいえ、そうではなくて主治医に働きたいということで相談に行ってきたのだ。
 働くということ。それは当たり前のこと。生きていくために、生活していくために働くのは当たり前のことであって、別に大したことでも何でもない。けれど、精神障害のある人にとって働くということは一筋縄ではいかないことで、何せ普通に何もせずに暮らすことさえ難しいのだから、それに加えてさらに働くというのはかなりハードルが高いし、わたしの中でもそれができる人というのはキラキラな別世界の人の話だった。
 今日、主治医と話をした時に一番印象に残っていることは、主治医が本当に嬉しそうな顔をしたことだった。今の主治医にはかれこれもう17年くらいはお世話になっていて、これまで月1回とか2ヶ月に1回という感じでゆるくつながり続けてきた。その主治医が今までの中で最高の笑顔を見せた。この先生、こんなにいい顔をするんだというくらい嬉しそうで、他人の言動からの影響をダイレクトに受ける感じなわたしはなおのこと、「あぁ、ここまで喜んでくれるなんて働くことを決意して良かったな」と感動さえした。
 わたしのことをほとんど知らない人は、わたしが働くらしいということを聞いても「あぁ、そうなの。やっとやる気になったんだね」くらいの感動しか起こらないだろうと思う。いや、それどころか「ダメな無職の40男が少しはマシになるみたいだけど、もう遅いよ。今まで何してたの?」と言われてもおかしくない。
 でも、わたしは生きてきた。この20年あまりの年月を精神障害者として生きてきた。それでいいんじゃないのと思うし、この20年近くの時間はわたしにとって必要な時だった。この間に死のうとしたことは何回かあったし、生きているだけで精一杯という時期もあった。
 何かね、思うんだけれど、みんな違うのだからみんな違っていいのだと思う。画一的に大学へ行きなさい。大学を卒業したら就職しなさい。30歳くらいまでには結婚して子どもを持ちなさい。車を持ちなさい。マイホームを建てなさい。仕事のキャリアを積んで収入はこれくらいは得るようにしなさい。子どもは最低でもこれくらいの学校に入れなさい、……。この通りにやるのが普通でそれから脱落したらアウト。みんな違うのだからみんな違っていいはずなのに、何かしら同調圧力をかけて「こうしろ」「こうすべき」と迫ってくる社会の無言のプレッシャー。人々の鋭く冷たい視線。
 わたしのことをきっと世間の人たちは認めようとしないし、「働くとかそれくらいのことで騒ぎすぎなんだよ」と思っていることだろう(わたしの被害妄想?)。でも、わたしにとっては一大決心でいわば事件(?)。ものすごく画期的なことで大きな大きな飛躍であり、言葉では言い表せないような上昇であり向上。それくらいインパクトのあることなのだ。少なくともわたしにとっては。
 そのことを主治医はたくさんの患者さんを見ているから痛いほど分かっている。働きたいと思って恋い焦がれるほどに願いながらも、精神障害があって働けない人を今までに何人も見ているはず。そして、何よりもわたしが調子が悪い様子などを今まで見てきているからなおのこと「働きたい」という一言が嬉しいのだろう。
 わたしの今の主治医の前の主治医。つまり、前のドクターの時のわたしのお薬はなかなか凄まじいものだった。多剤大量処方で完全に混乱していた。もはや、その中のどれが効いてきて、どれの副作用で今の状態になっているかなんてサッパリ分からない。そんなシビアな状況だった。そこから今の主治医がお薬の種類を減らして、さら減薬してシンプル処方へと切り替えていってくれた。もしも、あのまま前の主治医だったら今もたくさんのお薬をジャラジャラと何十錠も飲んでいただろう。お薬の副作用に苦しみ、枕にほぼ毎朝のようにヨダレをたらす日々がおそらく続いていた。だから今の主治医には感謝している。
 働くということはまた別の言い方をすれば普通に近付くとか、普通になることを意味する。たしかに最近のわたしはある程度普通に暮らせるようにはなってきた。ただ、働けない人がダメだとか、働かない人は無価値だとか、働いている人が偉くて立派だとか、そういうことをわたしが言いたいかのように誤解しないでほしい。わたしが思うのは、みんな違うのだからそれぞれのペースだったり能力だったりで、一人ひとりが他の人と比べることなくやればいいということで、何も普通と比べたり、誰かと比べる必要なんて全くないということだ。だって、繰り返すけれど、みんな違うのだから。違うのにこれくらいできなければダメだとか、これくらいはやろうねと言って強要してしまうのは良くない。
 人生をヨガにたとえるなら、みんな身体能力や運動経験、さらには理解力や柔軟性や記憶力などが違うから、先生が同じように教えてもある人はスイスイできるようになるのに、ある人はなかなかできなかったり、サッパリできなかったりする。人生もこれと同じで、みんな到達している所は違う。みんな同じようにできるようにはならないし、さらにはできるようになりたいと思う気持ちのあり方だって違う。いわばわたしはみんながヨガのポーズを懸命に練習している中でそれをやろうという気持ちが起きなかったし、そもそもそのポーズをできるようになることに意味や価値を感じなかったのだ。むしろ、そのために自分の自由な時間を削ることは徒労だとさえ思っていた(ここでたとえているヨガは仕事、働くこと)。
 極論になるけれど、わたしは働きたい人は働けばいいし、働きたくない人は働かなくていいと思っている。「働かざる者食うべからず」とか言う人もいるけれど、じゃあその日本や世界にいる働いていない人を餓死させて殺すべきだということなの? それって何万人になるんでしょう? 少なくとも全人口の1%くらいはいるのではないかと思う。だとしたら世界人口は80億人だから8000万人となる。それだけの人たちに死ねと? いやはや過激ですな。
 話を戻すと、そういうわけで主治医はすごく嬉しそうで、意見書も書いてくれるとのこと。お医者さんが嬉しいのはやっぱり患者さんが元気になったり、前向きになったり、何かにチャレンジしようとポジティブになったりした時なんだと思う。逆に言えば、それだけ「先生、調子が悪いです」「先生、苦しいです。どうにかしてください」が日常の風景なのだろう。だからこそ、その数少ない前向きな話が嬉しいのだと思う。
 主治医が具体的に今日してくれたアドバイスは、正規の障害者雇用だと週に20時間以上働かないといけないから、短時間のパートの方がいいのではないかということと、夜勤はなしにした方がいいということでもっともだなと思った。また、フルタイムの一般雇用は難しいから、A型の作業所とか障害者として一般企業で働くのがいい、といったことも教えてくれた。まぁ、わたしとしても週に20時間とかそれくらい働ければ、今は最低賃金が1000円くらいだから週にだいたい2万円となり一ヶ月で8万円くらいは稼げる。もうそれだけあれば充分で毎月の赤字も十分埋めることができる。
 なんてもう働く前から捕らぬ狸の皮算用をしておりますけれど、ここまで飛躍だの前進だのとピーチクパーチク鳴きながら初日働いてみただけで「もう働きたくない」と思って仕事をやめてしまう可能性もないことはない。つまり、ある。でも、たとえ初日だけで挑戦が終わってしまったとしても、チャレンジしたという尊い事実はしっかりと残る。やろうと思った。やってみようと思った。その結果惨敗。それならそれでいい。やらずに失敗できなかったことこそが最大の失敗なのだから、それと比べたら失敗することははるかにいい意義のある失敗なのだ。
「みんなが普通にやっている当たり前のことをやっただけで何も偉くもなければ前進でも飛躍でも何でもない。ただ今まで怠けて遊んでいただけ」。そんな感じで酷評する人は必ずいる。しかし、大事なのは自分にとってそのことが何を意味するかということ。それが誰かや多くの人たちにとっては当たり前とか大したことがないことであっても、本人にとってそれが画期的なことで今までやったことがないチャレンジなのとしたら、それはすごく尊いことだし価値がある。ある人や世間の多くの人が普通という常識的なあり方と比べて誰かがダメな存在に見えたとしても、その人が成長しているのなら、それこそが基準なのだと思う。他の人ではなくて、昔の自分と比べればいい。
 ヨガは人と比べるものではない。競争したり勝ち負けを決めるものでもない。自分が成長していれば良くて、ここが核心。1ミリでも1秒でも成長できていたらいいだけのこと。誰かと比べて買った負けたとそのことに振り回されているのはどこか幼いと思う。
 嬉しそうな主治医。母もその話を聞いて嬉しそう。ヨガの道場へ通うようになってもうすぐ1年。何かすごい勢いで物事が動いて進んでいる。まさかこういう方向へと行くとは。人生分かりませんなぁ。

PAGE TOP