きっとすべては波でしかないのだろう

ヨガインド哲学
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 時々わたしなんていない方がいいのではないかと思う時がある。新聞にしろ、テレビにしろ、ありとあらゆるものが勝者によって営まれているのを感じるからだ。
 テレビに映る美男美女は厳しい選抜を受けて残った勝ち組。おもしろい芸人もその世界でトップクラスの人たち。音楽も一流のアーティストたちによって作られて演奏される。文筆の世界だってそう。日本の中でも抜群に文章がうまい人や頭のいい人が活躍している。
 こんな調子だからわたしなんていてもいなくてもおんなじだと思ってしまっても仕方がないと言えば仕方がない。
 人はいいものを求める。それもとびきり上質のものを。さらにはそれをいかに安く手に入れることができるか。
 誰もテレビのトレンディドラマやCMなどで美男美女でもない普通の人を見たくはない。本を買って読むのなら、うまくもない中身がない文章なんて要らない。
 そんなわたしたちの欲望を鋭くしていった結果が今のこの世界であり社会なのだと思う。だから、星さんの三流の文章も要らない。ゴミ箱。ポイってなわけなのも仕方がない。
 でも、世界がそうなってしまうと普通の人はどうしたらいいのだろうか? 格別何かにおいて優れているわけでも秀でているわけでもない。そんな普通の人はどうしたら? そうですね。普通の人ができる普通のお仕事を普通のお給料でやればいいんじゃないですか、となって終わる。
 結局普通の人は普通に生きるしかない。そして、その普通の人たちは普通にできない、普通になろうとしない、その中でもズルをして楽をしているよう(その普通の人たちには見える)な人たちに冷たい視線を投げかける。
 わたしは思う。成功者がお金をもらいすぎではないか、と。そして、その人はもっと恵まれない人たちのために回すべきではないか、とも思う。
 でも、世界はきっとあんまり変わらない。ましてや、わたしが今この場でどんなに吠えてもそんなことはお構いなしに世界は回って動いていく。
 となると、危うい問いへと絡め取られそうになる。あぁ、わたしは大河の一滴でしかないのだな、というその一点に。だから、その一滴があろうがなかろうが全体に対してはほぼ影響がないわけで。
 でも、そんな感じで多くの一滴たちが次から次に「自分はただの一滴でしかないからいてもいなくても同じだ」と言って消えていってしまったら、それがすべての一滴に及ぶ時にはその大河はなくなって消えてしまう。
 その人類という大河があることがいいことなのか、それともそうではないのか、という究極的な意味での答えは分からないものでありながらも、大河の一滴が本当に意味するところは万物は大河もしくは海ということではないかと思う。一滴、一滴という形で分割できるように見えながらも本当は分けることができないのではないか。大河とか海、という全体において一つのもののように思えてならない。
 そういう視点で見ていくと、すべてはエネルギーが形をもって別々に現れているだけの言ってみれば海の波のようなものでしかなくて、美男美女も売れっこ芸人も作家も単なる波の現れでしかない。そう考えれば、どんなに優れているこれらの人たちも普通の人たちも、そして劣っているように見える人たちも等しい価値を持っている、という結論へとたどり着くはず。すべてはエネルギーなんですから。もしくは、すべては海の水なんですからというわけだ。それだけ。ただそれだけ。それだけなのにわたしたちはちょっと格好良かったり勢いがあったり変わった波を「素晴らしい」と評価しようとする。けれど、すべては同じものであって同じ価値を持っているものでしかない。
 わたしがヨガをやっているのもこの境地にたどり着きたいがゆえなのだと思う。この景色を見るために毎日ヨガの練習をしているのだ(と思う)。
 こういう風に物事をとらえていくと、もうほとんどのことがどうでも良くなってくるだろうと思う。優れている人と自分を比べることは二つの海の波を比べてどちらの方が価値があるか、などとやっているだけのこと。ただ波があって、すべては海の水だから一つ。それ以上でもそれ以下でもなく、ただそれだけのことだったりする。
 だとしたら、わたしは所詮、一時的な波の現れでしかないのだから、それだったらこの波でいられる時を大事にしようとむしろ思える。さらには、わたし以外の万物もことごとく、わたしと同じ海の水でできているわけだから、すべてがわたしなのだとも言える。
 すべてが同じ一つの海の水。そして、海の水は分けることができない。万物は無数の波として今日も立ち現れて、現れては消えていく。だからそこには恐れや不安はない。
 以上で終わります。またね。

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