どんな素敵な洋服よりも

いろいろエッセイ
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 訳あって洋服屋へと行ったわたし。そこはカジュアルな洋服のお店で、わたしには到底関係がない場所だった。が、入った。たまにはジャージではなくて、カジュアルもいいかなと思って。
 入ってみたものの、全然心がときめかない。それに障害年金しか収入がない貧乏なわたしにとっては、そこでお買い物をしている人たちがすごく裕福そうに見えてしまって、いたたまれなかった。
 けれど、せっかく来たのだからと、良さそうな色の服を選んでいざ試着。うーん、何か違うような。自分が大切にしたいイメージとちぐはぐになっているような。そんなことを思った。さらには、今の流行のデザインそのものが何か気に入らない。横幅が広めでゆったりしていて、というのがどうもしっくり来ない。
 そう思う理由が試着を終えて元の服(ジャージ)に戻った自分の姿を鏡で見て分かった。何だ。もう十分かっこいいいからだ、と。
 鏡の中のわたしは、ジャージを着ていて、黒く日焼けをしていて、体つきがヨガをやっているからか、ものすごくたくましくてしっかりとしていて、目はパッチリとしていて、研ぎ澄まされているような感じがしていた。何か目新しかったり、おしゃれなデザインだったり、高級な布地であったり、といった洋服などに頼る必要などはなかった。
 要するに、自分の肉体というものがどんな高級な衣服にも最新の流行にも優っていたのだ。そのことに気付いて何だかほっとした。
 最後にはその人がどう生きているかということ。それがかっこいいかどうかということなんだと思う。

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