今日のヨガ教室はいつもの先生ではなかった。いつもの先生はわたしが休んだ週に奇遇なことにお休みしたらしいのだ。何でも娘さんが熱を出したとかで、お休み。そんなわけで先週からピンチヒッターとして別の先生がやってきた。で、今週もそのヒッターの先生らしくわたしはもちろん彼女と初対面であった。
いつもの先生も、そして今日の先生も、ヨガの先生に共通していることって何かと言えば自然体なんだ。自然体。一言で言えば力みがない。自分を自分以上に良く見せようとか、格好良く見せようとか、手柄を得ようとするとか、そういうあり方とは真逆なんだ。そういった自分を飾りたてることに重きを置かない思考や文化が彼女たちを流れている。それが二人を見ていて思ったことだった。もっと言うなら、自分よりも大きな存在、大きな流れのようなものに身を委ねているような感じさえして、揺らがないで土台がしっかりとしていると言ったらいいのだろうか。急がない、慌てない、ありのまま、が彼女たちのモットーのように見える。
自然体の人と時間を過ごすと感じること。それはこちらを急かしたり駆り立てたりしないから、くつろいでいることができるんだ。何ともおだやか~な平和な時間が流れていて、いつもの喧噪というか、慌ただしい日々から一歩退いてまるでオアシスにでも入ったみたいな感じなんだ。今日のヨガの先生、ゆっくりまったり喋るんだ。指示は的確なんだけれど、まったりゆっくりと指示を出す。そんな彼女のヨガについての指示に心も体もリラックスしてきて、終わりのポーズ(たしか無空のポーズ)では本当に眠くなってきた。今日の先生はいつもの先生よりもこのポーズを長い時間やるように指示を出す。そんなところにも彼女のまったりゆったりな考え方や生き方が反映されているようで面白かったな。
今日のヨガのレッスンを受けたら人生急ぎすぎてたな~ってことを感じたんだ。もっとまったりゆっくりと味わってもいいじゃない、という気がしてきたんだ。わたしって素直すぎる? 環境に適応しすぎ? でもまぁ、彼女の指導を受けたらおそらく多くの人がそんな気持ちになってくるよ。まるでそのヨガは日向ぼっこの延長線上にあると言ってもいいかと思う。
いつもの先生と今日の先生。どちらも自然体になろうとか、何が何でも自然体でなければならないなどとはおそらく考えていない。自然体とはなろうとしてなれるものではなくて、ただあるがままにやっていたら結果としてなるような姿のことなのだ。良く見せようとしない。というか、そういう発想すらなくて、もうすでにそういった考えは手放している。手放して、手放して、いろいろ不要なものを手放せるだけ手放して、そして最後に残った宝石のようなものを大事に大事にしている。それが彼女たちにとってはヨガなのだろう。もちろん、彼女たちだってヨガ以外のことをすべて捨てたわけではないと思う。でも、不要なものを手放した思想と思考のシンプルライフを実践しているんじゃないか。
わたしはこれほど自然体が美しいものであることに今まで気が付かなかった。今までのわたしは単に着飾って格好良く見せるそのあり方こそが本当に粋な姿だと思っていた。でも、今のわたしは思う。自然体こそ最高の美しさなんじゃないか、ってね。洗練とか、研ぎ澄まされたとか、美しさとかをどこまでも追求していくと最後には無作為の美しさになるように思えてならないんだよなぁ。美しくなろうとか美しく見せようとはしない。けれど、その自然なありのままの佇まいに心が洗われるというか。そんな種類の美しさがあることに気が付いたのだ。
それから二人のヨガの先生に共通していること。それは彼女たちが精神的に渇いていなくて満たされているということだ。自分の内側を豊かにすることを、それも物欲とか金銭的なものによらずにすることができている。内側からにじみ出てくる。その人の人生観というか哲学というか、それがほのぼのとしていて、あったかくて、別の言葉で言うなら慈悲と寛容の心で満たされている。だから、すごくあったかいんだ。人に優しくしなければならない、などと愛想笑いを無理矢理作っている感じではなくて、本当に笑いたい時に心の底から穏やかに笑う。何て素敵な人たちなのだろう、って本当思う。
こうしよう、こうしなければならないと思って意識的になった瞬間にもうすでに自然体は自然体でなくなっている。そこが自然体の難しいところではないかと思う。自然体はなろうとしてなったり、なるものではなくて、そのまま、ありのままだから自然体なんだ。なろうと思った瞬間、それは嘘の自然体になる。
最後に今日の先生にいろいろわたしは質問をしたんだけれど、備忘録的に概要を書き残しておきたいと思う。彼女の一言、一言にはわたし自身教えられるところが多く、いい意味ではっとさせられたのだ。目からうろこが落ちたのだ。その言葉(というか内容?)をご紹介したい。
<メモ>
・ヨガを始めて10年以上になる。
・長い時間をかけて続けていくとヨガの良さがだんだん分かってくる。
・最初はわたしもできないポーズがたくさんあった。最初はみんなできない。
・毎日(ヨガを)続けることが大切だと思う。続けることによって少しずつ体も柔らかくなっていく。
・始めた頃と比べると体はすごく変わった。
・ぼちぼちでいい。
・無理をしない。ヨガは人と比べるものではない。
・腰痛には猫のポーズと赤ちゃん(胎児)のポーズがいい。
・ヨガは腰にもいい。でも、前屈のポーズを無理をしてやらない方がいい。痛気持ちいいくらいでやめておいた方がいい。
・ヨガをやる前に足首回しと足指回しをやるのがいい。ウォーミングアップもしないで体がガチガチのまま(ヨガは)やらない方がいい。
そんな先生に触発されたわたしはこんなことをメモ帳に書き残している。
<メモ>
先生が素敵な人だったな。腰が低くて、さっぱりしていて、優しくて、柔和。わたしもヨガを続けていったらああいう感じになれるんだろうか? 何かああなりたい。ああいう素敵な人になれるものならなりたい。
良い一日だった。生かされていることに日々感謝したい。神様、ありがとうございます。
わたしは精神障害者で吃音がある40代の男です。
教会を離れたプロテスタントのクリスチャンです。6年くらい教会生活を送りました。
キリスト教神学を勉強したり、ヘブライ語もやってみたりとすごく熱心な信徒でした。
毎週のように礼拝には休むことなく参加して、教会の集会にもほぼすべて参加していました。
今はヨガの道場へ通ってヨガの練習をしています。
毎日、瞑想もしています。
最終学歴は高卒で20代の頃に大学を中退しています。
福祉の勉強をしていたのですが、精神的な不調になり中退しました。
それから仕事などに就くこともなく現在に至ります。
また、放送大学で心理学を勉強しようと入学しますがそれも中退。
金銭的な理由と心理学への興味関心がなくなったのでやめました。
資格はたしか中学生の頃に英検3級を取りました。
でも、英語はほぼ忘れたのでEnglish,I don’t knowです(笑)。
資格はそれ以外にはないです。なかなかのフル装備です。
どこにでもいる平凡な人ですがエッセイを書いてこのブログで発信しています。
「無職が何を言っても説得力がない」とか「働け」などとある人から言われましたが、生きているだけでもいいと思っています。
まずは生きていること。死なないこと。
そこからできそうならステップアップしていきましょう、というわけで今はヨガとかお料理などを一生懸命やっています。
というわけで今ステップアップしようとしているところです。
最近、HSPの本を読んでどうやらわたしがそうだということが分かり、あぁやっぱりなと思いました。
人の言動から影響を受けやすくて、刺激に対して敏感な感じで、騒がしい場所や大きな音などが苦手です。
街などで2時間とか3時間くらい過ごすとだいぶ疲れる感じです。
集中力も長くて1時間半くらいしか続かなくてそれ以上続けると調子が悪くなってきます。
あとパソコンとかの画面が苦手で長い時間やっていると決まって不調になります。
毎日のようにヨガの道場へ行き1時間半くらいの練習をほぼ毎日のようにしています。
しかもそのやっているヨガがあの運動量が多くてきついと言われているアシュタンガヨガだったりします。
たしかに楽ではなくてそれなりにきついのですが、練習が終わるとものすごく調子が良くなって気分も上向きになってスッキリします。
心身共に強くたくましくなってきて精神的な不調になることもだいぶ減ってきました。ヨガから不思議な力を感じています。
このブログのアクセス数はさっぱりですが、それでもわたしは幸せです。
と言いつつも、ちょいちょいアクセス数がどうだのとぼやいたりしてはいますが。
ちなみに彼女募集中(?)です。