キラキラと本当の人間の価値

キリスト教エッセイ
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 今朝、何ヶ月ぶりだろう。テレビを見た。朝の番組を見たのだ。そうしたら、すごく気分が悪くなってきた。
 なぜかと言うと、テレビに出ている人たちがみんなキラキラしていたからだ。乃木坂が出ていた。彼女たちは洗練されたまばゆい美の集団で、それはそれは光り輝いていた。それから、大リーグの野球で日本人選手が活躍しているらしい。しばらくすると、マッチョの体格のいいお兄さんが出てきた。それから、イケメン俳優も出てきたな。極めつけは東大の先生。理路整然と冴えたコメントを時間内に述べていた。
 で、彼らのキラキラを見た後に、さてわたしは、と視線が自分に移ると、何だか自分がとてもしょぼく思えてきてしまったのだ。何にもできていない自分。何かの世界で活躍することなどはるかに及んでいない自分。彼らのキラキラの前でわたしはまるでどぶの水みたいな、そんな風に思えてきてしまった。
 自分よりも優れている人と比較してしまったから、こんなことになってしまったのだろうか。テレビを見る前までは、自分も満更悪くないと思えていたのに、テレビを見るともうダメなのだ。途端にしょぼく見えてしまう。
 わたしはキラキラすることに対して憧れを通り越して強迫観念すら持っているんじゃないかって思う。まさに、これはキラキラ病だと思う。星さん命名、キラキラ病。

 キラキラ病:キラキラ病にかかると、自分がキラキラしなくてはと思ってしまいます。そして、自分がキラキラできていないと激しい劣等感に沈んでしまい、自己肯定感は地の底をはいずり回ります。さらには、自分がキラキラになれないことが確定的になると、キラキラしている人たちを妬み、呪いさえすることでしょう。キラキラ病は早期に治療することが必要な精神的な病(?)です。

 キラキラ病にかかっているわたしはどうしても自分がキラキラになりたいと思ってしまう。光り輝いていたいと思ってしまうのだ。
 平凡ではダメなのだろうか。大衆に埋もれていてはダメなのだろうか。ダメだと断言することはできなくても、キラキラしていた方がいいに決まっている。
 と、ここまで書いていたらあることに気が付いた。全員がキラキラだったらこの社会はどうなってしまうのだろうか、と。幼稚園で桃太郎の劇をやるとして、登場人物全員が桃太郎。桃太郎、全員集合!! で終わりになりそうだ。家来の犬と猿とキジなんか出てこなくて、ひたすら桃太郎。というか、桃太郎しか出てこない。
 それと同じように、もしもこの社会で全員がキラキラする表舞台に立つような仕事をしていたらどうなるのだろう。全員が弁護士、とか、全員が医者とか、全員が俳優とか、全員が芸能タレントとか。言うまでもなく、その社会はそれでは回っていかないだろう。責任ある立場で仕事をする人もいれば、あまり責任を負わないで簡単な仕事をする人もいる。いろいろな人がいる。だから、この社会は回っているんだ。だから、一見キラキラしていないように見える人も必要なんだ。それに全員がキラキラしていたら、みんなキラキラしているわけだから、キラキラが平凡っていうことになってしまうよ。だから、ほぼ全員がキラキラしている社会では、キラキラしていないのが逆にキラキラだったりっていうことになるのかな。それはともかくとして、いろんな人がいるからこそこの社会は成り立っているんだ。それが職業が一つになってしまったら画一的で面白くないよ。
 要するにわたしは自分にスポットライトが当たるような仕事をして、ちやほやされたいようだ。ほめられたいんだ。賞賛されたいんだ。すごいって言われたいんだ。尊敬されたいんだ。憧れてもらいたんだ。
 でも、それは承認を求めているだけなんじゃないの?、とお気付きの方もおられることだろう。そうなのだろう。自分の価値を仕事で成功することによって高めたいのだろう。つまり、自分の価値と成し遂げた仕事とが連動していて、立派な仕事をした人はそうでない人よりも価値がある、という思想に基づいている。みんなから賞賛されたり、尊敬されるような人になること。そして、そのために偉大な仕事をすること。そのことによって、わたしの価値が上限知らずにどんどん高まっていく。そんなイメージなんじゃないか。
 ってそれは反対に仕事も何もしない人、何か大きなことができなかった人は人間としての価値が低いという思想をも表してはいないだろうか。
 人間の価値。人間の価値とはどのようにして決まるものなのだろう。つまりはそこに行き着く。人間に本当の価値があるのだとしたら、それは一体どのようにして測られるのだろう。そして、誰にその測るための基準を作る権利があって、誰にそれを判定する資格があるのだろう。とここで気付く。それって神様だけの特権じゃないのってね。人間に別の他の人の価値を決める権利なんてないよ。それでも、たしかに生産的な価値というものはある。どれだけお金をその人がつくることができるかっていう基準に従った価値だ。その価値に従えば、働いている人は働いていない人よりも偉くて価値があって、さらに働いていない人でも国に面倒をみてもらってない人はそうではない人よりも偉くて、最も下に位置しているのがみんなに迷惑をかけている法律に従えないような人たち。でも、その生産的な価値が低かったり、ない人であってもその人たちには本当に価値がないかどうか、って言えばそんなことはない。それを決めていいのは神様だけなんだよ。もちろん、神様が「こいつはダメな奴だから価値なし」と判定されるなら、被造物でしかないわたしたちはそれに黙って従うしかない。でも、神様はそんなことは言わないと思うな。というか、できないと思う。だって、御自分がその人を造りたくて造られたんだから、神様にとってはその人は最高傑作なんだ。御自分の手による最高傑作。それが被造物なんじゃないかな。だから、ハエだって、ゴキブリだって、わたしたち人間は嫌うけれど、神様にとってみれば最高傑作なんだろうと思う。ましてや、人間ともなれば溺愛ものじゃないの?
 あくまでもわたしたちが「あの人価値があるよね」「あの人素晴らしいよね」と判断する時には、人間の価値基準に従っている。こういう人は価値があって、こういう人は価値が低かったり、ない。そんな勝手な基準を作り出しては、人間の価値を決めつけている。でも、これと同じように、神様には神様の基準があると思うんだ。いわば、神基準が。それこそが真理なんじゃないか。人間の小賢しい浅はかな基準などとは比べものにならないような完全な価値基準を神様はお持ちなのではないだろうか。
 神の前の平等。そのことに思いを馳せるとき、人間のキラキラ基準に合致するかどうかなんていう了見の狭い見方ではなくて、もっと聖なる見識があることに気付かされる。
 わたしはこうここまで書いてきたけれど、それでもキラキラへの憧れは消えていない。でも、キラキラできるかどうかが人間の価値だなんて神様はおっしゃられないだろうから、この単純にキラキラすることに憧れてしまう自分自身のあり方を検討する必要があるかもなって思った。というか、世間でいうところのキラキラにならなくても、なれなくても、もしかしたらもうすでにわたしはキラキラしているのかもしれない。神様の被造物として、この世に誕生しただけで、もうそれだけでキラキラまばゆいばかりに光り輝いているのかもしれない。となると、キラキラはさらにキラキラすることなのかな? もうすでにキラキラしていて、この平凡な日常も天国であってパラダイスなんだ、と思えそうだけれど思えない(はっきりしないなぁ。そこはパラダイスなんだ、と断言しろよ)。
 キラキラになれなくても、もうすでにわたしはキラキラしていた? キラキラに憧れつつもいろいろ考える星なのであった。

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