未練

いろいろエッセイ星のアシュタンガヨガ日記ヨガ
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 ヨガをやっていて最近思うことは、もしかしたらこれは死ぬ練習ではないかということで、何だかおそろしいほどに執着がなくなってきている。
 と言いつつも、実際のところは死にそうになってみないと分からないとは思う。わたしはもういつ死んでもいいです、などと達観したようなことを言っていたのに死にそうになったら「死にたくねーよ。何で死ななきゃならねーんだよ」などと言って、まさに往生際が悪くどこまでも執着するのかも。でも、まぁこればっかりはその時になってみないと分からないということで、想像することくらいしかできない。
 ヨガの師匠がわたしに教えてくれたことなのだけれど、アシュタンガヨガのプライマリーシリーズの最初から最後までの一連の連続したポーズは人生をあらわしているそうだ。わたしはまだハーフまでしかやっていなくて、そのハーフ以降の苦しい、大変な部分というものはまだ経験していないから分からない。それはともかくとしても、ヨガというものは死ぬ練習ではないか。そんなことを最近思うのだ。
 人は裸で生まれて裸で死んでいく、ということは聖書にも書いてあるからキリスト教でもよく言うことで、つまり何も物を持たずに一文無しで生まれて、そして死ぬ時にも何も持って行くことはできずこれまた一文無しでこの世を去っていく。どんなに素晴らしい快適な人生を送っても、または反対にどれだけみじめでぶざまで不快極まる人生を送っても神様のもとへと行く。わたしには、「だから安心しなさい」と言っているように受け取れる。
 キリスト教に限らずどんな宗教でも人が死ぬ時には何も持って行くことができないというのは真理でこのことは本当に核心をついていると思う。
 ヨガでは一連のポーズを取った後に休むポーズを取る(つまり、練習の一番最後にこのポーズを取るわけだ)。その屍のポーズは人の最後の姿を象徴している。最期は死ぬ。それだけはたしかなことでおそらくそれを逃れることができる人は誰もいない。
 ある日突然、「あなたは3日後に死にますから未練や悔いのないように残りの時を過ごしてください」と死神から言われたらあなたは何をするだろうか? わたしだったら性的に不能になっていなければ女の子と体を重ねて最期の時を過ごすことだろう。「最期にそれかよ」なんていう批判はこの際、どうでもいい。だって死んでいくのだから。死んでいく人間に世間体や見栄は必要ないし、どう見られたって思われたって構いはしない。しかし、「俺は死ぬんだ」とどんちゃん騒ぎをするわけではない。暴飲暴食をして死に際にドタバタするわけでもない。ただ、その女の子に「もうわたしは死ぬから心残りがないようにしたい。長くないんだ」と静かな口調で告げて、静謐な落ち着いた性的な交わりをする。
 そういう観点から見ると、わたしの自室にある本はほとんどが役に立たない。そこそこの冊数はあるものの、どれもこれもこうした問題に対しては役立たずだ。健康法の本、料理の本、ヨガの本などなどは死んでいく人間にとってはほとんどがどうでもいい内容でその時には意味をなさない。そう考えると、あと3日で死ぬとなった時に何をして過ごすか、という質問はその人の本当の姿をあぶり出す。だから、わたしにとってセックスという営みはとても特別なものなのだろうと思う。それを聞いて、わたしのことをその程度の人間だと思いたい人は思えばいい。なぜなら、わたしはその程度の人間でしかないのだから。隠そうとしても取り繕うとしてもこれが本当のわたしの姿なのだから。
 と言いつつも、厄介なのは何年何月何日に自分が必ず死ぬということが分からないことだ。死はいつも突然で不意打ちだから予測がほとんどできない。だから、お金だったら自分が死ぬ時にちょうど使い切りましたというのが理想だと思うものの、そう計算通りにはいかない。ためてためてためて、で、使うこともなく死ぬということはよくあることでそういう人は少なくない。
 ちょっと話に横槍を入れてしまったのでまた元に戻そうか。わたしが死ぬまでにやりたいことって何なんだろうと考えてみると何かなぁって分からなくなってくる。本当ないんだよね。やり残したことが。あ、でもあったか。あったあった。死に際に思うことは多分「もっと女の子とやりたかったな」っていうことで一にも二にもそれではないかと思う。ってどんだけゲスなんじゃいと自分でも思う。全然清くもないただの獣のようなわたしだけれど、このことを認めたらすごく生きやすくなった。そうか、やりたいんだ。女の子とやりたいんだ。それが多分わたしの欲望の中で大きいのだろうなぁ。自分を静かに観察して心の声を聞くとそんな声が聞こえてくるわけだ。
 思えばわたしは性的なことについては禁欲的だった。Hなビデオは思春期以降には見ていたものの、男女交際や女性との浮いた話はなかった。高校、大学、そして社会人と本来だったら女性とお付き合いしたり性的な体験や経験などをする時期に精神的に不調だったものだから逃してしまった。女友達、告白、男女交際、お付き合い、デートなどの順番を一気にすっ飛ばして駆け込むように童貞を卒業したわたしだから実は女性とデートすらしたことがない。大人の階段飛ばしすぎだろと自分でも思う。本当はステップを踏んで一歩ずつセックスへとたどり着くはずのところを一気にてっぺんの頂上へと上ってしまった。
 そんな性的に飢え続けた期間が長かったわたしだからそれが解禁されたらそりゃあ大変なことになる。今までためていた水が一気に流れ出すわけだから激しくなって当然だ。おそらく、わたしは今、失われた思春期と青年期を取り戻そうとしているのだろう。思春期と青年期に抑圧して押さえ込んできた性欲が解放されて暴れているとも言える。20歳前後に女性とお付き合いをして順調に段階を踏んで性的に満たされ続けてきた人だったらわたしと同じ40代であってもそんなにガツガツしていないだろうし、女性に飢えてもいないだろうと思う。
 こんなわたしだから悟りを開くことなんて絶対無理だし、キリスト教的に言ってももしかしたら罪深すぎて地獄へ行くのかもしれない。でも、きっとなるようになる。というか、なるようにしかならない。だから、いい。これでいいのだ。わたしがジタバタしたところで何も変わらないのだから。
 ヨガの道場へ通うようになって自分がいかに女性に飢えているかということが分かった。自分を観察すればするほど、向き合って浄化していけばいくほど、そんな自分の姿が見えてきて直面させられる。今まではきっとごまかしていた。何だかんだ理屈を言っては自分の欲求を否定して見ないようにしていた。それはまるで狐が「そのぶどうは酸っぱいから要らない」と言うことと同じでとにかく自分自身に向き合おうとせず、自分自身の気持ちや思いを否定していた。自分を見ないようにしてはぐらかしていたとも言える。でも、本当は女性とやりたかった。それは必要ないとか邪で程度が低いだ何だと否定しながら一番それを求めていた。街で今風の、女性と好き放題セックスしていそうなチャラいお兄さんを見ると凄まじいまでの嫌悪感に襲われたのは自分が我慢していることを好きなだけやっている彼らに腹が立っていたからだと今では分かる。わたしはこんなに我慢しているのに好き放題女の子とやりやがって、ということだったのだろう。
 未練、か。死に際にわたしは何を後悔するのだろう。と考えるとまたしてもあの一人の女性の顔が浮かぶ。その人とは別の人と思う存分セックスをした後、さわやかな感じでその後という雰囲気は全く見せずに足取り軽くわたしはきっとその人の元へと向かい、こう言うのだろう。「もうじきわたしは死ぬから死んだらお線香1本でもいいからあげに来てください」と。わたしはやっぱりその人のことが好きなのかもしれない。でも、わたしはその人と一緒に暮らしたいわけではなかった。人生を共に歩みたいわけでもなかった。じゃあ、何? 何だか分からないけれど魅かれている。それ以上でもそれ以下でもないそんな人。それがわたしにとっての未練なのだろうか。頭にふっとよぎるこの少しざわつく感じ。未練なのかもしれない。まぁ、来世があるとしたらまた会えるでしょう。だから心配はしていない。
 このことが今のわたしにとっては仄かな未練のようだ、ということに気付いたものの、だからといってその人を手に入れたいわけではない。自分の物にした途端、たちまち彼女は咲いている場所から折り取られた花のようにしおれて枯れてしまうだろうから。わたしが望むこと。それはただ彼女に今のまま咲いていてほしいということなのかもしれない。ほしいことはほしいのだけれど、ほしいのともまた違うこの微妙な感覚。この気持ち。けれども、死ぬ前にその人のことを多分、思い出す。
 メンドくさいな。こういう男が一番面倒くさいよ。自分でもそう思う。ほしいのなら手に入れなよ。「あなたが好きなんです」と告白して自分の物にしなよ。うーん、そういうのではないんだよなぁ。ちょっと違うんだよなぁ。うー、本当面倒くさい男だ。
 わたしはこの世に未練がほとんどなくなりつつあるわけだけれど、強いて言うならその一点が気に掛かるわけで。
 きれいな花を「きれいだなぁ」と眺めている。自分の物にはしないでただ眺めている。その時こそが幸せなのかもしれない。でも、やっぱりほしい? どうなんだろ。それが結局分からなかったのが未練とか? いやはや、どうなんだろ。分からんな。
 長文読了感謝です。ありがとうございます。

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