すぐに「わたしには無理」と言う人たちとそんな彼らを批判する人たちについて精神障害者で無職のわたしが考えたこと

いろいろエッセイ
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 頑張ればできる。できないのはまだ努力が足りないからだ。だから頑張れ。そうすればできるようになるから。
 その言葉を信じて頑張った人たちは一定数いる。けれど、これは言うまでもないことで、勉強を頑張ればみんな東大に合格できるかと言えばそんなわけはない。東大までいかなくても、どんなに頑張っても中学校の勉強や高校の勉強でつまづいてしまって、それ以上先に進めない人はいる。
 これは勉強に限らず、スポーツや芸術やお料理やその他いろいろなことについても当てはまる。
 みんな違う。初期能力、つまり資質が違う上に置かれている環境も違う。もともとの能力が高いかどうかということだけではなくて、その人の家庭の経済力やまわりの人間関係なども影響してくる。まさにこれは不平等で不公平。クソゲーと言ってしまえばクソゲーと言うしかない。
 けれども、テストはみんな一緒。学校の入学試験は画一的に同じ試験で合否を決める。これは本当にフェアではないと思う。だってある人は小さい頃から専属の家庭教師をつけて勉強を見てもらって、潤沢な勉強するための教材を与えられて、有名な塾へも行き、学校は有名な私学へと通わせてもらっているのに対して、また別のある人は日々の食事にさえも困っている感じで家庭教師はおろか塾へは行けず参考書も買えない。学校も地元の公立へしか行かせてもらえない。で、同じテストをやったら絶対前者の方が有利。いや、もう結果はやるまでもなく見えている。
 また、家庭環境だけではなくて生まれながらの能力というのも平等に与えられてはいない。両親が学校の先生とか東大卒とか弁護士とか医者とか、そんなバリバリのサラブレッドだったら子どもも頭がいいだろう。スポーツの世界で行くのであれば、両親がプロスポーツ選手とかオリンピックのメダリストなどであれば、その子どもも多くの場合、身体能力が高くて運動神経もいいはず。
 つまり、一人ひとりが違うということで、同じ努力をしたから同じ結果が出るとは限らない。そして、一人ひとり違う地点に立っている。だから、二人の人がいるとして、同じ課題を前にした時に一方は「楽勝」と思うかもしれないし、その一方でもう一人は「こんなの無理だ」と途方に暮れてしまうかもしれない。その「楽勝」だと思った人からすれば後者の人がすぐに「無理だ」とやる前から諦めてしまう姿は努力しようともしないダメな人のように映る。でも、その「無理だ」と思って最初から諦めてしまう人を責めることはできないのではないかと思う。だって、少なくともその人が自分には「無理だ」と思ったその気持ちだったり思いは真実なのだから。少なくともその人はそう思った。それならその気持ちは尊重した方がいいのではないか。なんて弱者に、できない人側に寄りすぎなのだろうか?
 でも、わたしもそうだけれど、ついつい自分の物差しで物事を見て判断してしまう。たとえば、10kgのお米はそれなりに重いけれど、2kgならいけるだろう。誰でもそれくらいは持てるはずだ。だから、2kgのお米を目の前にして「わたしには持てません」なんていうのは甘えている。最初からできないと決めつけてるだけ。実際まだ何にも努力さえしていないではないか。努力しろ。そうすればできる。
 こんな風にわたしなども自分の基準を相手に押しつけてしまう。しかし、2kgのお米であっても持ち上げられない人だっている。多くの人はこれくらいの重さだったら何の苦労もなしに持ち上げられるか、少しの間かそれなりの期間、筋トレなどをすれば持てるようにはなる。でも、相当努力してもやっぱりできない人もいる。どんなに頑張っても持ち上がらない人もいるはず。寝たきりの要介護4とか5の老人や目で瞬きしかできない身体に障害がある人には無理だ。
 まぁ、これは極端な例ではある。わたしがさらに言いたいのは、そのすぐに「わたしには無理」と言ってしまう人にはそれなりの理由があるということ。もしかしたらその人は過去に大きな失敗をしてしまって自分を無力な存在だと思っているのかもしれない。自分が何もできないということを突きつけられる人生を送ってきた可能性だってある。あるいは本当はやればできるのに、家族などから事あるごとに「お前はダメな人間だ」とひたすら否定されて育ってきたのかもしれない。そもそも成功体験をほとんどしてこなかったまま今に至っていることだってないとは言えない。
 でも、そういったことは一切、家族でもない他の人は知らない。だから、ただ「わたしには無理」とか「わたしにはできません」と言っているだけのようにしか見えない。本当はその人がそう言ってしまうことにはちゃんとした理由があって、それなりに納得できて腑に落ちるような背景、理由があるにもかかわらず、それは覆われていて見えない。
 そう考えると、すぐに「わたしには無理」と諦めて弱音を吐いてしまう人を批判して良く思わない人にもそう言ってしまう何か理由や背景のようなものがあるはずだということも見えてくる。そういう人は自分が弱音を吐けない、吐くことを許されない厳しい環境で育ってきたのかもしれない。さらには努力すれば努力した分だけ、物事をうまく成し遂げて目標を達成することができたことが多かったから、頑張ればできるはずだと学習しているという風にも考えられる。成功体験をひたすら積み上げてきてある種の全能感さえ持っているのだとしたらそう考えるようになってもおかしくない。それに加えて、家族などのまわりの人たちもその人に自立することを強く求めてきたのかもしれない。
 と、すぐにできないと言う人を批判する人にも若干譲歩はしてみた。しかしながら、誰もが生きていきやすい社会とか世の中というのは弱さをも認めるあり方ではないかと思う。わたしは、すぐにできないという人がいたっていいと思う。みんな違うのだからそういう人がいてもいい。いや、むしろそういう人がいてくれるからこそ、社会が競争とか生き残りのためのサバイバル一色にならないで済んでいるような気がする。また、すぐにできないと諦めてしまうことにもメリットはある。デメリットだけではないのだ。何よりも自分への負荷がかかりすぎることを未然に防いでくれる。そして、この「わたしには無理」とか「わたしにはできない」という言葉は翻訳すると「もっとわたしにできそうなことを要求してよ」「わたしに負荷をかけすぎないでよ」となる。つまり、その要求されていることが大変すぎるからもっと簡単に、楽なことに、できそうなことにしてほしいというリクエストだということ。
「10kgの荷物を運んでください」
「わたしには無理」
と、ここで無理と言わずに「できます。やらせてください」と言えばその10kgの荷物を運ばなくてはならなくなる。けれど、ここで「無理」と言うことによって相手も「じゃあ、5kgならできそうですか?」と負荷を少なくしてくれるし、それでも「無理」と言えば言うたびにどんどん要求されるレベルは下がっていって楽になっていき、自分の今の状態とつり合うようになっていく。だから、何でもかんでも「できます。やればできますから。努力します」と安請け合いすることが必ずしもいいわけではない。ちゃんと自分にできそうなことを「できるからやります」と引き受ける。この方がむしろ誠意があるのではないかとさえ思う。
 このことは何も荷物の重さなどだけではなくて、何かを教えてもらう時にも言えることで、先生から教えてもらう時に一人ひとり違うから、一度に7個とか8個くらいっぺんに教えられても充分理解してものにできる人もいれば、1個か2個でさえも覚束ない人だっている。その1個とか2個でさえも大変な人が一気に7、8個ものことを教えられたらどうなってしまうだろうか。言うまでもなく固まる。フリーズして何もできなくなって1個もものにできないなんてことになると思う。だからそういう時には先生に「わたしには無理」と率直に言った方がいい。それだけでは誤解を招くようなら「そんなにいっぺんには理解できないし覚えられない」と付け加えればいいだけのこと。と、ここで少し前の話も踏まえるなら、この「わたしには無理」と言う人はその人が自分には無理そうだから無理と言っているのだから、それを「やりもしないで最初から無理とか言わないでよ」みたいに批判するのはすごく手厳しい態度ではないかとわたしは思ってしまう。1、2個しか覚えられない人が7個とか8個のことを覚えろ、ものにしろとか言われれば絶対無理だと思うはずで、その人の率直な思いはまさにその言葉の通りなのだ。
 こういうことを書くときっと体育会系の世界で頑張ってサバイバルしてきた人はおそらく「限界というものは自分で限界だと思ったところが限界だ。だから、その自分の枠を壊して突き抜けて超えていくことが大切だ」と言うことだろう。まぁ、それも一理あることはある。実際わたしがアシュタンガヨガをやってきた中で自分で限界だと思っていたところが限界ではなかったということがよくあったからだ。でも、それでも自分でこれは無理そうだなと思ったことはやっぱり無理だったことがほとんどで、少なくともその時点では無理だったというのが事実だったりする。長い目で見て、そしてそこを通り過ぎてみると限界ではなかったということはあっても、その時の自分にとっての限界であったことに変わりはない。
 ともかく、できる人というのはできない人に対しても、頑張れば自分と同じようにできるようになると思ってしまうところがあって、ついつい自分の物差し、基準で見て判断してしまう。でも、一人ひとりは違う。生まれながらの能力も置かれている場所もその人の歴史だってみんな違う。それを自分の物差しなり基準で「ダメだろ」と裁いてしまうのはどうかとわたしは思うのだけれどどうだろうか? とわたしも裁いてますね。裁いておりますね。「裁くな」と裁いておりますね。じゃあ、どうしたら? 裁いてしまう人にも裁いてしまうだけの理由や背景などがあると相手の言動を大目に寛容な眼差しで見つめる。そうした先にこそ本当の共生社会とか多様性を認め合うという道が開けてくるのではないか。って結論になっているような、なっていないような。濁して終わっているだけのような。でも、世の中ならびに社会というものは雑多な人間の集まりであって、白か黒かではなくて全体的に見ればまさにグレーのようなもの。だったらもっとお互いに批判しあうのではなくて大らかであってもいいのでは? わたしと価値観や信念、信条が違う人とはどうも馬が合わない。だったら合わないなりにやっていく。世界を自分の色、一色にするなんてことは無理なんだから、いがみあわないで、けなし合わないでやっていこうじゃありませんか。
 長くなりました。読んでくださりありがとうございます。ではでは。

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