自分の人生に責任を持つということ

いろいろエッセイ
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 わたしがヨガの道場に通うようになって10ヶ月。今ではほぼ毎日のように練習に行き、それはそれは充実した幸せな日々を送っている。
 かと思いきや、迷いのようなものが生じてきた。本当にこれでいいのだろうか、という迷いが。それは葛藤まではいかないものの、心の中で少しモヤモヤし始めていて、スッキリしない。
 これをヨガの師匠に相談すれば、続けるよう勧めるだろうし、それなりの理由を示して動機付けをしてくれることだろう。
 でも、最後に責任を取るのはこのわたしであって、ヨガの師匠が責任を取ってくれるわけではない。わたしが決めて、わたしがその責任を取る。それだけのことでそれ以外にはない。
 それは人生においても同じで、最後は自分で責任を取るんだ。誰かがこうした方がいい、ああした方がいいい。これはやめた方がいい、などと懇切ていねいにきめ細やかにアドバイスしてくれたとしても、それをどう受け止めて何を受け入れるかは自分次第。採用して行動に移すも良し。聞き流すだけで実行しないも良し。
 何をするか。そして、何をしないのか。何に人生の時間を使って、何に使わないのか。何を大切にして何を適当に扱うのか。それらはすべて自分自身に委ねられている。たとえ、全能の神様が「こうしなさい」「こうすべきだ」と命令してきても、それすらも嫌だと思えば突っぱねることはできる。神様が命じることなのだから、おそらく無視したりしたら良くない結果が待っているだろうけれど、それらも含めて責任は自分自身にある。
 でも、いろいろな人がいて「わたしは自分の人生の責任を負いたくない。誰かが言うとおりに生きて、その人の奴隷として生きることができればそれでいい」という人もいるかもしれない。たしかにものすごく能力が高くて賢い人で、人を利用して搾り取ろうとかそういう悪意が微塵もない人なら、そういう人に言われるがまま、なすがままに生きるのもいいだろう。いわば絶対君主の言いなりに生きる。それこそが無駄がなく迷いなどもない最高の人生なのだと。
 たしかにそれも一理ある。けれど、人生の責任を取るというのは言葉にするとそれだけだけれど、果たしてどうしたらその人の人生の責任を取ったことになるのだろうか? 誰かに自分の人生の舵取りを任せてとんでもないことや取り返しのつかないことが起こった時、その任された人はどう責任を取るのだろう? お金を払う? 謝る? 元通りにする? 言うまでもなくどれもこれも償いにはなっていない。唯一、正しい責任の取り方があるとすれば、時間を逆戻りさせて問題が起こる前に戻すことくらいで、それ以外に解決方法はない。
 誰かのせいで人が健康を害したり、死んでしまったとして、お金を払えば、それもたくさん払えば問題は解決するなどと考えるのはおかしい。それらがお金をもらっても取り戻せないものなら全然償いになっていないじゃないか。
 そう考えると神様でもあるまいし、時間を戻すことなどできないのだから、誰も人生の責任というものが取れないということが分かる。だとしたら、一番納得がいくのは、これは自分が決めたことなんだから誰にも文句が言えないという、自分自身で自分の人生の責任を取ることだろう。
 誰もわたしの人生の責任なんて取ってくれないし、取りようがない。それなら、自分でしっかりとちゃんと決めて、誰にも文句を言わないのが一番いいと思う。「わたしが決めました。だから、わたしに責任があります」。その方が潔くてサッパリしているし、後味が悪くない。
 そんな感じでやっていきたい。

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