これでいいのか良くないのか

ヨガインド哲学
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 ほぼ毎朝のようにヨガの道場へ行ってヨガをやる。帰ってきたらお料理をする。空いた時間に読書をする。今は夏だから出掛けたい時にはプールや少しばかりの小旅行をする。母とも特に問題なく楽しく毎日を送れている。
 申し分ない。やりたいことをやり、まさに自由気ままな生活。お金はないけれどないなりにやれていて、まぁいいんでないの、みたいな感じ。
 でも、最近本当にこれでいいのだろうかとふと思う。ヨガをやるとすごく調子が良くなって快活になるし、お料理も楽しいし、読書もまぁぼちぼち楽しめているし、不満なことはない。と、そこにぽっかりとまではいかないものの、何か違うような気がしてくるのだ。
 何が違うと言うのだろう。もう今が幸せなんでしょう? 今がそれなりに楽しくて幸せなんでしょう? 何をこの上望むの? それって高望みなんじゃないの? わたしはわたしと対話し始める。
 おそらく、いや多分あれが原因だ。最近、あるヴェーダーンタの本に触発されて、そこから自分の本当のあり方を見つめ直し始めている模様。
 その本はすごく突き抜けている。とにかく普通の感じではなくてインド哲学的に突き抜けるところまで突き抜けたみたいな。
 楽しい時間も自分で作ったおいしいお料理も知的な満足感や好奇心も旅行もどれもこれも永続はしない。始まりがあって終わりがある。その長さはそれぞれ違うけれど、みんな気持ち良くしてくれるのは束の間の間だけ。持続する時間、快感の強さ。みんな、いわばセックスみたいなものでいつまでも気持ちいい状態なんて続かないし、続いていくわけがない。
 わたしは気持ちがいいことが好きだ。人は皆、快楽を求めて苦痛を避けようとする。そして、その気持ちがいい時間をできるだけ長く保とうとする。
 でも、もしかしたら本当に最高に気持ちがいいのは何もない状態なのかもしれない。何もなくてただただ静けさと穏やかさが流れている無とか空のような状態こそが本当の意味での平安であり、苦痛とか快楽とかそういった状態を超越してこそなのだろうかと思ったりもする。
 要するにわたしは源を求めているのかもしれない。根源、一番最初の帰るべき場所。それが母なる海なのか、宇宙の意識なのか、それは分からない。でも、最高に気持ちがいい状態をどこまでも追求していくとわたしが始原へと還っていくことになりそうだ。
 昔好きだったアニメの新世紀エヴァンゲリオンの人類補完計画のようなイメージがわたしの脳内にフラッシュバックしている。一つになる。始まりへと帰る。源へ、どこまでもどこまでも源へと辿っていき最初の帰るべき場所へ。それはそれはとても気持ちのいいこと。自分と他人の境界線がなくなって溶け合う。
 わたしはその人類補完計画のようなスピリチュアルな永続する幸せを求め始めている、のかもしれない。ちょっとヤバイ入り口に立ってる? でも、そもそもヨガの目的は本来は悟りだからね。だから、これは自然な成り行きでこういう感じになってもおかしくはない。
 わたしへと還っていく。ただそれだけのことなのかも。わたしの旅はまだまだ始まったばかり。いや、もう既にゴールにいる?

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