朝のヘブライ語30分

 クリスチャンの憧れ。夢。それはイスラエル旅行かもしれない。イエスさまにゆかりのある場所を巡るまさに巡礼の旅。クリスチャンなら誰しも死ぬまでにイエスさまが活躍された地の空気を吸ってみたいと思うことだろう。一度は行ってみたい。わたしも同感で、死ぬまでに一度でもいいから行けたらなぁと思っている。
 けれど、今は新型コロナが蔓延していて、海外旅行とか本当に思い切らなければ行くことができないし、実際勇気がいる。国内旅行でさえも躊躇しているようなわたしにとってはかなりハードルが高い。
 忘れていませんか? クリスチャンの憧れと言ったらもうコレだ!!、っていうやつがあるでしょう。そう、聖書の原典を読むことである。意識高い系クリスチャンが目指す高み。それが聖書の原典講読なのだ。
 というわけで去年の8月からヘブライ語を本格的に学び始めた星である。が、ほぼ1年が経とうとしているのに、教科書として読んでいる日本ヘブライ文化協会『ヘブライ語入門』はほとんど途中から進まなくなってしまって、しばらく投げ出していたのだ。
 なぜわたしのヘブライ語の勉強が続かないかと言えば、切迫したものを感じないのですよ。神様のことばである(と逐語霊感説をとるわけではないけれど)ヘブライ語の旧約聖書が読めなくとも大して困ることはないのだ。聖書はしっかりと日本語訳の聖書があるわけだし、今んところ特に困ってはいない。こんなことを言うとやる気がないように思われるかもしれないけれど、わたしが生活している場所は、日本語で全部何とかなる日本だし、イスラエルへ留学とかしてヘブライ語ができるかどうかが死活問題で何が何でも修得する必要がある、というわけでもないのだ。人間、必要に迫られないと、もっと言うなら生きていくのに必要だという真剣さがないとなかなかマジになれないわけですよ。・・・と言い訳タイムひとまず終了。
 こういうわけで中断していたヘブライ語の勉強。それをまたどういうわけか本腰を入れて再開したいと最近思ったのだ。どういう風の吹き回し、てな感じもするけど、まぁやりたくなったんだからいいじゃないですか。応援してくださいよ。フレ~、フレ~、星さん。フレフレ星さん、フレフレ星さん。フレ~~~!!!
 わたしのこれまでの続かないパターンはとてもはっきりとしていて、やらなければと思っているのだけれど後回しにしてしまう。それで後でやろうと思っていて、実際その後になると「今日はもう疲れたから明日にしよう」となる。また次の日もやらねばって思っているんだけど、また後回しに。で、「今日も疲れたな。ヘブライ語、できる時にやればいいや」と結局その日もやれず。最終的にはこれを繰り返すわけなんだ。となると、結局いつまで経ってもヘブライ語の勉強は後回しになってしまってやらずじまいになる。
 これを打開するにはどうしたらいいのか。星の回らない頭で考えてみた。そうだ、朝とりあえず30分でもいいからヘブライ語をやればいいんだ。語学はとにもかくにも毎日やることが大切。わたしの今までのパターンから行くと、後回しにしてしまって結局やれずじまいになるというのがお決まりだから、だったらそれを逆手にとって一日の始めに勉強してしまえばいい。これは逆転の発想だなといいことを思い付いた星である。去年の8月にヘブライ語のアレフベートを覚える時にやった方法がまさにこれだった。朝、目が覚めると真っ先にヘブライ語の勉強をしていたんだっけ。そうだな、ヘブライ語をものにしたいんだったら、朝やるというのがいいかもしれないな。
 というわけでこのことを今思い付いたかのように書いているけれど、これは今朝起きた時にひらめいたことなのだ。で、早速、今朝実践してみた。今日は朝の4時に起きて、4時16分から30分ほど勉強できたんだな。思い付いてこれはいいんじゃないかと思ったら行動する星さん。偉い、偉いぞ。
 独学というのはなかなか続かないものだなと思う。最初の志に従ってやっていくことが難しいのだ。でも、それでも続けていきたい。ヘブライ語ができるようになってヘブライ語の旧約聖書をスラスラ読んでいるわたしを想像すると、そうなりたいものだとやはり思うのだから。ヘブライ語を読みこなしている未来の自分に憧れる。その憧れを夢物語で終わらせないためにも、とりあえず毎朝30分ヘブライ語をやる。そして、昼間も1時間ほどさらにやる。そうすれば、きっと勉強が捗っていってものになっていくことだろう。
 で、とりあえずこの『ヘブライ語入門』のテキスト、できるかどうか分からないけれど10月に入るまでに終わらせたいな。目標高く掲げすぎかもしれないけれど、ま、できなかったらできなかったでいいじゃないの。それが達成できなかったら懲役3年とかそういう話じゃないしさ(そんな世界があったら本当怖いね)。目標が達成できなかったとしても、わたしのヘブライ語は格段に向上しているのだから、決して無駄にはならない。少なくとも旧約聖書を原典で読むという壮大な野望(!)の実現には近付くのだ。毎日ヘブライ語を勉強するごとに目標に一歩ずつ近付いていく。
 また折れそうになったり、後回しし始めるようになってしまったらこの記事を読み返すようにしようと思う。また気持ちを入れ替えて取り組むことができるんじゃないかな。
 とここまでぐだぐだ書いてきましたが、あなたも何かやりたいことがあったらぜひ挑戦してみてくださいね。
 ヘブライ語の旧約聖書がわたしに読まれることを待っている。神様のことばを翻訳ではなくて原典でじかに読みたいと切望している星なのでした。朝のヘブライ語30分頑張るぞ!!

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ヘブライ語、できるようになってやるんだ

 何か気分が重い。やる気がしない。
 ここんところハードだったのだろうか。もしかしたら知らず知らずのうちに無理をしていたのかな。思い当たるふしはいろいろある。
 今日、あんなに調子が良かったのに、急に一転したのだった。豚バラと里芋のカレーを食べ終わったあたりから急に調子が悪くなりだした。カレーを作ったのが疲れたのかもしれない。昨日と今日、二日続けてネットを割合長時間やっていることもメンタル悪化の原因なのだろうか。そして、今日は筋トレも散歩もしていない。運動不足。ここんところ、目覚めが悪い日が続いているということもあるかも。
 何か疲れた。一日中何もしないで寝ていたい。明日は日曜日で教会の礼拝だけれど、何か行くのがとても億劫になりだしてきた。何かそういう気分じゃないのよ。
 放送大学の試験も終わって、さぁヘブライ語をやるぞーってな時にげんなりしているわたし。ヘブライ語が重い。やってできるようになったらそりゃあいいんだろうけれど、今のわたしにとってはとても重い。2ヶ月で『ヘブライ語入門』を終了させようという計画自体に無理があるのかな。計画を立てようとすると途端に気が重くなる。
 ともかく計画なんか立てないで、できるだけ、やれるだけヘブライ語を勉強する、でいいんじゃないかという気もしてきた。その日、その日、できるだけでいい。精一杯その日、その日勉強できたらそれでいいじゃないか。それが精一杯なんだからそれ以上は無理だ。
 というわけで明日からヘブライ語の勉強を本格的に本腰を入れて始めよう。と言うと苦しくなってきちゃうから、まぁ、焦らず気張らず最善を尽くす。やれるだけやる。それでいい。それでいいと思う。それをやっていけば自然と勉強時間も増えていくことだろう。時間は計らない。進捗状況もノートに書いたりはしない。ともかくその日、やれるだけやる。テキストが1ページしか進まなかったとしてもよしとする。体調は毎日違うんだから、不調の日があってもいい。でも、毎日やる。ヘブライ語を中心にした生活を送っていく。
 ヘブライ語、できるようになりたいんだ。そして、イエスさまも読まれたヘブライ語の旧約聖書を何が何でも読めるようになってやるんだ。

聖書を原典で読めるようになりたいとヘブライ語とギリシャ語を勉強中

 数日前からヘブライ語の勉強を毎日1時間くらいしている。もちろん日曜日はお休みにしているのだけれど、それにしても毎日1時間というのは、なかなか上達するものである。
 8月から本格的に始めたヘブライ語も5ヶ月目に突入。あと1ヶ月でもう半年になるわけだ。早い。時が流れるのは本当に早いものだと痛感せずにはいられない。
 最近、ヘブライ語が上達したものだと我ながら惚れぼれするのは、前よりもヘブライ語を読む速度が上がっているからだ。最初のころは、はっきり言うまでもなくよたよた読んでいた。一文字読むのに4、5秒かかっていたと思う。けれど、それが今ではスッと読めるのだ。もちろん、ヘブライ語の朗読CDのスピードで文字を追っていくまでには上達していない。それはネイティブレベルだ。そこまではまだ行っていない。そこまでは行っていないけれど、それでも前よりは読むスピードが上がってきていて、スッと行ける。これってすごいんじゃありません? よく己に勝てとか、自己新記録を目指せとか言うけれど、まさにわたしの場合、自己新も自己新。何せ読む速度が確実に上がってきているのだから。
 こういう経験って本当に嬉しいし励みになる。考えてみれば、みんなこうしたことを多かれ少なかれやってきたのだ。わたしは日本語のネイティブだが、それでも日本語のひらがなを初めて覚えようとした時のことを思えば、みんな最初はよたよたなのだ。よたよただったのだ。みんな、最初はよたよた。覚束ない足取りで文字を必死で読もうとする。よたよたどころか、読み間違えたりもする。それでも続ける。続けていく。そうすると、よたよたが少しペースアップしたよたよたになる。そして、それからも続ける。続けていく。そうすると、よたよたが二段階速度が上がったレベルになる。こうして、こうして、あきらめずに読むことを続けていくと、読もうとしなくても自動的に読めるようになる。もうそうなれば、よたよたではない。その状態になるまでには相当の年月の努力が必要だけれど、やっていけば、あきらめないで堅実に続けてさえいけば、いつかは分からないけれども、いつかはそうなるのだ。そのレベルに到達する日がやってくるのだ。
 わたしのよたよたヘブライ語が少しましなよたよたになってきた。続けることの力を知るのである。
 こうなってくるともう嬉しくて仕方がない。さらに勉強したい気持ちが湧いてくる。そして、こうした成功体験はわたしをやればできるんだと思わせてくれる。わたしも捨てたもんじゃないな。結構いけるじゃん。やればできるじゃん。
 ヘブライ語の勉強仲間のFさんに最近こんなことをわたしはTwitter上で言った。「8月頃にはFさんもわたしもヘブライ語のアレフベートをやってたじゃないですか。それを思えば今のわたしたちはものすごく成長してますよ。ものすごい成長して進歩してます。」Fさんは「そうですね。そうだったですね」と話を受けてくれた。Twitter上でヘブライ語の勉強仲間を募集したらFさんがダイレクトメールをくれたのだ。そこからわたしたちの励まし合いながらのヘブライ語の勉強が始まったのだ。ちなみに以前、ブログの記事でもふれたTさんは、と言うと、ヘブライ語の入門テキストを通読されたらしいのだが、彼には彼の方向性があるらしく、日本語訳聖書と英語と日本語の対訳の聖書をじっくり読みたいとのことで、その方向性を尊重したいとわたしは思っている。
 たしかに聖書の原典を読めるようになりたいと原典の言語を学び、それを読む方向に持って行くのも一案であるとは思う。けれども、聖書を原典で読むことだけがすべてではないのだ。人それぞれ聖書に対する姿勢や取り組み方は異なるし、実際異なっていてもいい。むしろ違うからこそ面白いとも言える。でも、わたしが思うにいずれTさんも聖書を原典で読みたい、となるんじゃないかと期待している。まぁ、彼がいつそう思うようになるかは彼と神様のみが知ることだけれど。
 人生は長い。極端な話、80代からヘブライ語を始めてもいいのだ。80歳からヘブライ語を学ぶ。いいなぁ。そう思えば、30代、40代でヘブライ語をやらなくたって別にいいじゃないか。楽しみは最後にとっておく、というイチゴのショートケーキのイチゴを最後まで残しておくような人もいることだろう。
 聖書を原典で読むこと。これはとても意義があることだとわたしは考えている。だから、ヘブライ語をやっているわけなのである。ヘブライ語をやっていて感じることは、中東の息遣いってこれなんだよなぁっていうことだ。パレスチナの乾いた砂漠の言葉のように感じるのだ。
 そういう意味ではわたしはアラビア語にも興味がある。ヘブライ語、ギリシャ語、ラテン語、とやったら次はぜひともアラビア語を学んでみたいと思っているくらいだ。
 ヘブライ語で旧約聖書を読む。ギリシャ語で新約聖書を読む。ラテン語でウルガタ聖書を読む。そして、アラビア語でコーランを読む。あ、それから忘れてた。ドイツ語でルター訳聖書を読むんだった。それだけやれば上等だろう。文句なしだろう。
 原典を読むことはまさにその息遣いにふれることではないかと思う。おそらく日本文学の芥川とか太宰とか漱石を英訳とか外国語訳にしてしまっては、あの味わいは出てこないだろう。ましてや、詩とか短歌とか俳句となればなおさらのことである。俳句の英訳ってあるらしいんだけど、芭蕉の「古池や蛙飛び込む水の音」をフロッグ何たらにしてもきっと味わいが出ないだろうなぁ。
 まぁ、ネイティブでない人間に外国語が分かるのかという難しい問題もあることはあるけれど、それでも原典で読むことは翻訳されたものを読むよりも、その原典に近付けるだろうことは確実ではないかとわたしは思う。たとえばシェークスピアを理解したいと思ったら、それも深く理解しようと思ったら自然と英語の原典へと向かわないだろうか。それと同じように、聖書を理解しようと思ったら自ずと原典へと引き寄せられていく。わたしは原理主義者ではないけれど、原典を読むことによって聖書の息遣いを感じることができると思っている。そして、それが神へとさらに近付いていく一つの方法なのではないかと思えるのだ。もちろん聖書を読むことよりも無心に祈ることをした方がいいという信仰篤い方の御意見もあることだろう。けれど、それも一つの方法ながら、聖書の息遣いを感じることが出来るように原典に取り組むのもいいのではないかと思うのだ。
 聖書がどこまで神の言葉か、というのは難しい問いでキリスト教陣営においても二つに分かれてしまっているくらいなのだから、拙速に回答を出すことはできない。でも、わたしは少なくとも聖霊の働きが聖書には及ぼされていると信じている。逐語霊感説まではいかなくても、少なくとも聖書には聖霊の働きが豊かに注がれている。それを信じる時、その聖霊を受けて書かれたものは、その書かれた言語の形式によってまとめられているのだから、少なくともその形式について学ぶことは意義のあることだと思えるのである。
 そういうわけで、やる気満々のわたしは何とヘブライ語だけではなくてギリシャ語もやることに決めたのである。二兎追う者は一兎も得ず? いやいや、追って得てみせますよ。星さん、二兎追いながら十兎くらい捕まえてみせますよ。豪語した。豪語してしまった。前言撤回するなら今のうち、とばかりに撤回はいたしません。(笑)
 ヘブライ語を学んで旧約聖書を原典で読む。そして!! 新約聖書を原典で読むためにギリシャ語を学ぶのだ。
 で、ギリシャ語始めたのだけれど、このギリシャ文字って数学で出てきませんでしたか? アルファ、ベータ、シータ、ガンマなどなど、出てきましたよ。たしか。それで、たしか放射線もアルファ線、ベータ線、ガンマ線とあったよね。もしかして、ギリシャって数学と縁が深かったりして。(予想)だから、数学でギリシャ文字がたくさん登場してきたんだろうなぁって思うわけ。(予想)
 未知の分野のギリシャ語。何でも語順はどうでもいいとか、よくないとか。あんまり適当なことを言うのは良くないので、ギリシャ語についてはこのあたりにしたい。
 ヘブライ語とギリシャ語。二刀流でやっていきたい。

 追伸
 注文しておいたギリシャ語の入門テキストとギリシャ語の新約聖書(原典)とそれの朗読mp3CDが先日届きました。ギリシャ語の新約聖書をパラパラ~と読んで猛烈に感動しました。この中にイエスさまのことが書いてあるんだと思うと感動せずにはいられないのです。これが原典か、と感動です。そして、朗読CDを聞いてみて、またもや感動。やりがいあります。新約聖書、3年以内に読めるようになってみせます。目標、3年です。

ヘブライ語、ぼちぼち難しくなってきましたな

 ヘブライ語。やればやるほど、先に進めば進むほど難しくなってくる。でも、これは幸せなこと。数学がだんだん難しくなっていくのと同じようなもので、高度になっていくことは自分が先に進んでいるれっきとした証拠だ。ずっと簡単なままだったらやる気しないでしょ? 難しくなっっていくから俄然やる気が出てくるのです。などと言いながらもこうも難しいとため息が出てしまう日も正直ある。ムズ! ムズムズ!!
 これだけ難しいながらも続いているのはやはり仲間がいてくれるおかげだろう。正直、日曜日を除いて毎日ヘブライ語というのはなかなか大変だったりする。どうしても人間楽な方に流れてしまいがちで、「今日はあんまりやる気しないなぁ」と思うこともしばしばなのである。けれど、仲間がいる。仲間がいて共にこのヘブライ語という大きな山を一緒に登ってくれているではないか、と思うとさぼることが後ろめたいことに感じられて、やる気がしない日であっても15分くらいはやることができるのだから仲間の力にはスゴいものがある。
 ヘブライ語の文字の読み方(発音)が一通り終わったわたしはやっと文法編に突入したのだ。突入して今までのはウォーミングアップだった、ってなことに気付かされた。やっと本番なわけだ。ここからヘブライ語の本格的な学びが始動するのだ。今までのウォーミングアップですら、「ムズい。ムズい」と音を上げそうになったわたしのことだから、これから先何度も何度も折れそうになることだろう。でも、わたしは一人じゃない。わたしには共に同じ目標を目指している尊い仲間がいるのだ。だから、大丈夫だと思う。
 何でもヘブライ語の名詞には男性名詞と女性名詞しかないらしい。じゃあ、LGBTなレインボーな人はどうしたら……、と思ってしまうわけだが、それはさておき、ヘブライ語の名詞は男か女かはっきりしているのだ。驚くべきことは名詞ならすべて、つまりは抽象的な言葉なども含めてすべてに性別があるということなのだ。男子生徒や女子生徒なら性別は明らかだろう。けれど、本とか鉛筆とか自由とか性別がどっちなのっていう言葉にも性別はある。そして、男性か女性かどちらかなのである。わたしが思うにこれだけ男性か女性かにこだわるのは、性別が重要なことだったからではないかと思う。男か女か。現代は男女平等の時代だけれど、ヘブライ語の世界は違うのだ。聖書を読んでみれば、いわゆる男性優位の世界なのは言うまでもないことだろう。
 ヘブライ語、難しくなって大変になってきたけど、同時に面白くもなってきた。一歩一歩、ヘブライ語の旧約聖書が読めるようになっている未来の自分へと近づきつつある。うれしい。8月から本格的に始めてはや3ヶ月ちょい。人間、続ければできるようになるものなんだね。しみじみそう思う。
 神学校制作のDVDを見ながらも、今わたしは聖書ヘブライ語ではなくて、現代ヘブライ語に迂回して勉強している。遠回りのようだけれど、かえってその方が近道じゃないかと思う。わたしのヘブライ語の師匠も使用したテキストを用いて勉強しているのだから、大丈夫だと思う。「現代ヘブライ語→聖書ヘブライ語」のルートで行こうかなと思っている。
 ヘブライ語の初級文法、1年か2年くらいでものにしたいな。とはいえ、なかなか思い通りに進まないのが語学だけれど、とりあえず今やっているところを確実にする。そして牛歩のごとく行く。毎日(日曜以外)続ければきっと早いうちに終わるだろう。まぁ、焦らず急がずやっていきたい。

ヘブライ語の勉強仲間と師匠ができた

 数日前、わたしはTwitterで次のようなことをツイートした。それは、ヘブライ語の勉強仲間を募集しますというものだった。
 このツイートにはたくさんの「いいね」が押され、リツイートもしてもらえた。久しぶりに大盛況なわたしのツイートとなった。
 わたしはダイレクトメールを希望して待っていた。そうしたら一人、わたしの勉強仲間になってくれる人が現れた。わたしはその人がヘブライ語を勉強しているということは前から知っていた。お互いにフォローし合っているし、知らない仲ではない。(わたしのこのブログにコメントしてくださったことが出会いであったように思う。)ただ、今一つ接点のようなものがつかめないまま、時々お互いのツイートに「いいね」を押し合っている。そんな仲だった。だが、これを機会にわたしたちは勉強仲間となったのだった。
 実はこの人が一人目ではなく二人目なのだ。一人目はこのブログでも紹介したTさんで、Tさんも「(ヘブライ語)やろうかな」とヘブライ語の参考書まで買って付き合ってくれたのだ。ただ、Tさんに「最近、ヘブライ語の勉強進んでいますか?」と聞いたらあまり進んでいないとのことで、これは勉強仲間があと何人かほしいなとわたしは思ったのだった。(TさんにはTさんのやりたいことや興味・関心があるので無理強いはできない。)ヘブライ語の勉強仲間が急にほしくなってきたのである。
「いいね」を押して賛同してくれる人は何十人もいたが、実際に、では一緒に勉強してくれる人となるとなかなかいないのである。そんな中、一人現れた。これは本当に嬉しかった。聖書には「求めなさい。そうすれば与えられる。」とあるが、この言葉の通りだと思った。求めれば必ず何らかの形で与えられるのだ。
 この人、Fさんとしておこうか。Fさんにわたしは「目標をお互い立ててみませんか?」と提案してみた。するとFさんはわたしのこの提案を受け入れてくれて、お互い目標を言い合ったのである。
 仲間がいると、お互いに目標を立て合うことができ、モチベーションを維持することがやさしくなる。ダイエットや運動なども一人でやるよりも仲間を作ってやった方が続くと言うではないか。
「仲間がいる。だから壁にぶつかっても乗り越えることができる。」こんな言葉をまるで他人事のように聞き流してきたわたしだけれど、この言葉は真理だと思う。仲間をつくり励まし合うことによって、どんなに壁が高くとも乗り越えていくことができるのだ。まだ日は浅いが、それでも仲間がいることによってもたらされる恩恵が計り知れないことはひしひしと感じつつある。
 Fさんの目標。ヘブライ語の参考書を一日あたり2ページ進めるとのこと。
 星さんの目標。ヘブライ語の学習DVDを一週間、一ヶ月とそれぞれの期間で終わらせる目標を立てた。
 Tさんは? おそらく近いうちに参戦してくれることだろう。Tさんの今後にもわたしは期待していると書くにとどめたい。
 そういうわけで仲間が新たにできた喜びとやる気に包まれている星なのである。そういうわけでFさんと「今日からヘブライ語の勉強始めます」と宣言し合った日曜日、もちろんヘブライ語を勉強した。た・だ・し、ちょっと勉強し過ぎた。張り切りすぎて飛ばし過ぎたのだ。ちょい反省。初日から息切れし始めているペース配分を考えない星なのだった。ぼちぼちやっていこー。その方が長続きするし、無理がないからね。
 それからわたしが自分でヘブライ語の師匠だと思っている人もいて、わからないことがあるとその人にTwitterで時々質問をすることがある。そうすると、丁寧に回答してくれる。本当ありがたい。やはり、何かをやるにあたって質問できる師匠がいるというのは大きい。わからなかったら人に聞く。質問する。なかなかこれがマニアックなヘブライ語ともなると質問できる人がリアルの世界ではほとんどいない。(牧師くらい?)
 ネットは同志や仲間を探すのにうってつけのツールではないかと思う。ヘブライ語をやりたい人なんてわたしの身の回りにはいないから、本当重宝している。ネットだからこそ見つかった仲間であり師匠である。(ヘブライ語を教えてくれる教室と言えば近くても東京まで行かなければならない。)
 仲間と切磋琢磨し、師匠から分からないところを教えてもらう。これを続けていけばかなり熟達することができるのではないだろうか。そういうわけで、ネット社会の恩恵を豊かに受けているわたしなのである。
 この調子だ。あとはひたすらコツコツ、コツコツ勉強していくだけだ。頑張れ、大地。続けろ、大地。未来は明るい。
 神に感謝。

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