【放送大学】『人間にとって貧困とは何か』第9回 貧困と友人関係-「伴を慕う心」の行方

 1.秋葉原無差別殺傷事件

 2008年6月8日、東京の秋葉原で、25歳の青年が2トントラックとダガーナイフによって7人を殺害、10人を負傷させる事件があった。犯人の加藤については、ネット上での彼による書き込みや彼の生育環境などに関連して様々な議論が人々によってなされた。
 「見られているかもしれない不安」と「見られていないかもしれない不安」の2つの不安が同時に彼につきまとっていたのではないか。

 2.親密圏としての友人関係

 人間関係の中に占める友人関係の比重は、全体としてはせりあがりつつある。グローバリゼーションによる帰属の不安定化が個人化を進展させ、アイデンティティを何かに所属することによって持つことが難しくなってきたからである。私が私であることの根拠を組織ではなく個人に見出そうとするようになったのである。
 「個性」や「私らしさ」が重視される社会は厄介な課題を抱え込むことになる。「私らしい私」を他者にそのまま承認させることは難しい。
 なお、他ならぬ特定の他者への配慮、関心によって相互に結合した関係の圏域を親密圏という。取り換え不能の関係のことである。
 親密圏は誰にでも平等に与えられるものではない。つまり、どんなに努力を重ねても友人を得られない人がどうしても出てきてしまうのである。また、以前は家族が親密圏となることができたが、今ではもはや自明のこととは言えない。若い男性の生涯独身率が上昇していることがこのことを物語っている。

 3.地元つながり

 未婚の若年層は親密圏への関心が強いのだが、その一方でそれが脆弱なものでかつ希少なものであるということを認識している。そのため、友人からいい評判を取り付けて友人関係を維持する、いわゆる友人問題が切実なものとなっている。
 親密圏への関心は貧困層において特に重みを増す。経済的あるいは学歴的上位層にいる若年層には余裕がある。組織、学校、家柄などを誇ることができ、自らのアイデンティティの源泉とすることができるからである。気に入らない人間関係は切り捨てたとしても痛くないのである。人は次々に寄ってくる。
 若年の非正規雇用層の研究として、新谷周平の「ストリートダンスと地元つながり」という論文がある。彼らの関係世界の特質を新谷は「地元つながり文化」と呼び、「場所、時間、金銭の共有という特徴をもった」「非移動志向の文化」であると述べている。また、学業達成が低く親はサラリーマンでないことが多い。学校の就職あっせん機能が低下し、家庭の情緒安定機能も弱いため、この文化が彼らにとってある種の居場所となっているのである。

 4.友人関係の弱さ

若年の非正規雇用層の「地元つながり」は彼らがなんとかやっていくために編み出した戦術のようなものである。しかし、内輪における安心感がかえって彼らを現状離脱から遠ざけている。彼らのつながりは「安定した仕事」へとはつながっていかない。よって閉じたサイクルの中に結果、いつまでも閉じこめられることになる。そして、彼らはメンバーの一人の誰かの行動に対しておそらく責任を取ろうとはしないし、助けるかどうかも怪しい。
 彼らは視野が狭く、「地元」の外には広い世界がありそこで評価される可能性があることを知ってはいるが、実際にどのようにしたら認められるかということを知らない。

 5.大人はどこに行ったのか

 わたしたちは親以外にも多様な人々から影響を受けて人格を作り出している。要素も組み合わせ方も個々に委ねられているため、同じ人格を有する人間はいない。その人を理解するためには家族的背景さえ押さえればいいわけではない。これらのことから、親しかモデルがいないという事態は高リスク状態であることが分かる。
 以前は親方や師匠などがいて、子どもたちは社会化され、大人になることができた。しかし、今やそうした大人は少なくなってきている。
 非正規雇用の現場で働く若者たちはいくらでも代えのきく使い捨ての労働力でしかない。彼らに社会的承認を与えてくれるのは家族以外ではローカルな友人くらいしか残されていない。ここで登場しない存在は一体誰か。同年代の友人と家族以外の大人たちである。おせっかいな大人がいないのである。多様な年齢層と彼らが接点を持つことができるようになれば、彼らにも道が開けてくるのではないか。

 6.承認と確認

 杉田真衣は、東京都内の「最低位校」公立高校出身の女性5人にインタビューを行い、彼らの高校卒業後の5年間を通じての「労働と生活の移り変わり」を記述・分析した。杉田は、5人の関係および彼女たちの人生に偶発的に訪れた様々な他者との関係にみられたものは、承認よりも確認という言葉で表現した方が適切かもしれない、とのことである。互いの生活をまなざし合い、互いの生活がそれで「大丈夫」だと確認し合うような関係を築いているのである。
 一方、秋葉原で殺傷事件を起こした加藤の場合はどうであったか。彼は地元からは離脱した人でプライドが高く、ネット空間において「今の私ではない私」を構築することに没頭した。彼の孤独はそうした私を求め続けた者の孤独である。
 彼にはヴァーチャル空間がローカルな共同世界に思えたのではないか。しかし、誰も彼を承認しなかった。承認される見込みがないこと、そのことが露わになった時、加藤は破綻したのではないか。
 彼のまわりにおせっかいな大人がいたかどうかはわからない。しかし、もしかしたらそのおせっかいな大人たちが彼を承認ではなく確認によって、もっと違った方向とやり方で「今の私ではない私」を想像するヒントを与えることができたのかもしれない。

 <わたしの感想>
 秋葉原無差別殺傷事件を起こした犯人にとっては、「まなざしがないこと、他者たちのまなざしが集まらないことが地獄だったのである」(大澤 2008)。
 わたしはブログをやっている者だが正直なところを告白すると、自分に注目が集まらないと苛立ちのようなものを覚えてしまう時がある。頑張って執筆し続けているのにアクセス数が3だったりしようものなら、途端に気持ちが揺れ動いてしまう。(最近ではありがたいことに2桁行く日がほとんどになったが。)
 世の中には人気者とそうではない人がいて、一方が注目され賞賛されるのに対して、他方はどんなに言葉を紡いでパフォーマンスをしても無視され続けるという厳しい現実がある。だからといって、無差別殺傷をやっていいわけではない。断じてやってはいけないし、容認できないし許されるものではない。
 何かもっと違うやり方、方法があったのではないか。自分が注目されない、無視されているという実感があったのだとしたらもっと別の方法で欲求不満を解消する手だてはなかったのか。そこが悔やまれてならない。
 また、わたしも障害者で定職にはつけておらず細々と暮らしているわけだが、下層から抜け出すのは本当に至難の業であるとつくづく思い知らされている毎日である。わたしの最終学歴は高卒で、大卒でしかも新卒で就職というレールから完全に外れてしまっている。レールに乗ることがすべてだと思っている人から見たら完全にアウトであり、落伍者である。わたしに待っている仕事。それはきつくて時給が安くて、あるいは時給が高い場合には危険な仕事である。そういった仕事しかわたしには残されていない。もしもわたしが安定した仕事につくことを望むのであれば、大卒にならなければならない。でも、どうやって? 金がないのにどうやって大学へ行くんだ? というわけで放送大学で地道に単位を取っているわたしなのだが、大卒って楽じゃじゃないのね、ということを肌身を持って実感させられている。というか、大卒になったところで精神障害のあるわたしにフルタイムが務まるわけもなく、障害者就労しか残されていない。となると、高い時給は期待できない。といった具合で先が見えない次第なのである。もうこうなったら一攫千金でも狙うしかないのかもしれない。
 本文では「地元つながり」が登場してきたが、わたしは地元つながりに対してさえも羨望のまなざしなのである。地元つながり云々言う前に友人が一人もいなかったからだ。だから、加藤よりも孤独なのであった。加藤には友達がいたらしいから。わたしのつながりはほぼ家族のみであって、それ以外の人間関係は皆無であった。わたしのフラストレーションが反社会的な行動へとならなかったことはせめてものわたしにとっての救いである。
 地元つながり。つながりがあるなんてなんて素晴らしいのだろう。わたしの20代は本当に孤独だった。ほとんどひきこもりみたいなものだったし、それに統合失調症という病にとにもかくにも圧倒されっぱなしだった。ようやく30代になっておそるおそる母と一緒に教会へ行き始めて物事がいい方向へと好転し始めたような気がする。それまではとにかく毎日が苦しくて苦しくて仕方がなかったのだった。
 本文を書いている放送大学の西澤教授はしきりに「おせっかいな大人」の効用を説いている。わたしもそう思った。何か世の中がスマートになりすぎておせっかいな大人が減ってきているように思えるのである。モデルが親だけしかいない、というのが高リスクであるという。もっともだ。多様な大人の姿を子どもたちが見ることによって、いや見るだけではなくおせっかいな大人に接して関わることによって、自分にとってのこうなりたいというロールモデルが確立する。わたしも教会に行っていてこうなりたいと思える人がいる。その人はおせっかいではないけれど、その人との関わりの中で本当に多くのことを教えられている。
 わたしのブログの影響力は、インフルエンサーに比べれば雀の涙ほどもない。微々たるものでしかない。でも、わたしは小規模ながらも人々に影響を与えているのである。そして、誰かをもしかしたら前向きな気持ちにしたり、励ましたり、元気を与えたり、最終的な目標としては幸せにできたら嬉しいと思っているのだ。わたしの文章に誰かを幸福にできるほどの力があるのかどうかは疑わしいし、そんなこと無理だろうとわたしは思ってしまうのだが、幸せは主観的なものであり、その人のこころが決めるものなのだから、もしかしたらという期待もある。誰かの幸福に寄与するような文章を書きたい。そんな思いでいる。
 だから、殺傷事件を起こした加藤とは真逆の方向を歩みたいのである。反社会的なことをして注目を集めるどころか、向社会的なことをしてできることなら注目も集められればベターである。
 この気持ちさえ持ち続けることができれば、たとえ注目されなかったとしても反社会的な暴挙に出ることはしないだろう。
 現在はわたしの数少ない読者のために書いているわけだが、初心忘るるべからずで初志貫徹していきたい。何かわたしの感想というよりも後半は抱負になってしまったが、とりあえずこのあたりで今回を終えたい。以上、お粗末。


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【放送大学】『人間にとって貧困とは何か』第8回 子どもにとって貧困とは何か

 1.社会問題としての子どもの貧困

 ようやく子どもの貧困が社会問題として議論されるようになってきた。自由ならびに平等という価値を追求する時、14%という子どもの貧困率は優先度の高い課題である。子どもはどこに生まれおちるのか自分で決めることはできない。そして、そこでの条件の有利不利はまさに不平等としか言うことができない。また、子どもの貧困は社会問題としての側面をも持っている。
 こうした議論に反論する人々もいる。それは日本の新自由主義者である。彼らは「親が悪い」のだから政府はかかわるべきではないと主張する。貧困への取り組みにおいて、最大の障壁は、制度と社会を強固に呪縛し続けている家族主義である。
 就学援助制度は、生活保護世帯と準要保護世帯(生活保護水準に近いと市区町村が認めた世帯。なお基準は市区町村によって異なる。)に適用される。準要保護世帯の多くは生活保護水準にありながら生活保護を受給していない世帯である。そして、就学援助を受けている世帯のうち9割以上が準要保護世帯というのが実状なのである。
 日本の子育ては社会的に支えられているというよりは家族依存の傾向にあり、日本は他の国よりも子どものいる世帯に対する社会保障給付が薄く、税や社会保障費の負担が重い傾向にあって、所得再分配が貧困削減の機能をほとんど果たしていない。
 子どものいる貧困世帯の半数以上はふたり親世帯であるが、家族形態別の子どもの貧困率はふたり親世帯では12.4%、ひとり親世帯では54.6%となっている。
 母親たちが選べる職種は、非正規の臨時・パート職がおもで、そのことの不利が明らかに直撃しているのが母子世帯なのである。日本のひとり親世帯の貧困率は高く、OECD加盟国中最も大きい。
 子どもの貧困への対策の中心は、やはり経済的な援助の具体化と積極的な教育保障ということになるであろう。ただし、貧しい子どもたちを学歴競争に向けて加熱させることを目的としてしまうと、競争の敗者というラベルをあらためて貼られた若者たちを数多く作り出しただけで終わってしまうのではないかという危惧を著者は抱いているようである。

 2.イデオロギーとしての遺伝論

 貧困を生きる人々にとって、最も厳しい敵は宿命論として機能する遺伝論である。このイデオロギーは貧者をあきらめへと誘導し「仕方がない」と現状を受容させる宿命論として立ち現れる。
 「インセンティブ・ディバイド(意欲格差)」という言葉がある。親の階層が上層だとその子どもの学習意欲がほとんど低下しないのに対して、より下層の場合には学習意欲の低下が顕著だったのである。つまり、多くの場合、不利はあきらめへと人々を誘うのである。不利が意欲を生むというのは特殊的な事態であり、なかなかそれを逆転するのは難しいようなのである。

 3.社会化

 人、特に貧者は宿命論にとらわれてしまいがちだが、それでもあきらめきれずに「今の私ではない私」をイメージする。その宿命論をこえるイメージはどこからやってくるのか。この問いに社会学的に答えるためにはG・H・ミードの社会化についての議論を経由する必要がある。
 ミードは、子どもが社会化において強い影響を受ける人物を重要な他者と呼ぶ。重要な他者は家族から広がっていき、その人数も増えていく。やがて、子ども(幼児)は重要な他者からの期待を自分なりにとりまとめ、一般的な期待を想像しつつそれに合わせて振る舞わなければならなくなる。そうすることで、一人の重要な他者(たとえば母親)の直接的影響から離れて、一般化された他者による自己拘束へと移行するのである。こうして、その幼児は社会というひろがりを生きる小さな個人になるのである。
 このミードの社会化についての議論を踏まえるなら、「親しかモデルがいない」という状態は高リスクであることが分かるだろう。狭い世界を相対化して社会というひろがりの中に身を置けば、その狭い世界を客観化することができる。社会化は、それぞれの家族・学校・地域・職場をこえた社会というひろがりにおいてなされるものなのである。

 4.社会関係資本

 教育社会学者の志水は、「つながり」の豊かさの度合いが学力と相関していると述べている。近隣関係が密で「地域とのつながりが強い」(地域の持ち家率が高い)、「家族とのつながりが強い(離婚率が低い)、「学校とのつながりが強い」(不登校率が低い)、この3つのつながりが豊かな自治体の子どもたちの学力は相対的に高く、逆に「つながり」が揺らいでいると思われる自治体の子どもたちの学力は低いという傾向が、経済的条件にあわせて浮上してきたという。
 貧しい子どもであるならなおさら多様な大人たちに囲まれるべきである。貧しい子どもの社会化とアイデンティティ構築の観点からは、多様な人々との接触を通じて、彼らが生きる世界をこえて存在するひろがりを感覚するところに大きな意味があるのである。

 5.攻撃される子どもたち

 貧者、貧しい子どもであることは社会的なスティグマ(烙印)である。ひとたび貧者として認識されれば、貧者としての烙印を通してしか理解されなくなる。そして、スティグマから自由になるための自己呈示は往々にして社会的に拒絶される。
 貧困のスティグマを通して貧者を見る人々は、「貧乏人らしい」もの以外の貧者の自己呈示を許さない。
 だから、NHKのニュースで母子世帯の女子生徒が生活の苦しさを訴えても、(進学できないこと、パソコンが買えないこと等)自室に趣味の物品があることが判明しただけで叩かれる事態となったのである。

 <わたしの感想>
 わたしも子どもの貧困については、子どもの側には何の責任もなく、ただ生まれてきた家庭が貧しかったばかりにあらゆる不利な状況を背負わされるのはいかがなものかと思う。大人には自己責任論を持ち出せないこともないが、子どもには無理だ。
 この不利な状況を乗り越えなければならないと人間がスタートラインが一緒だと強調する人もいるけれども、まずもってスタートラインから周回遅れくらいの差がついているのではないか。
 人間は平等のはずなのに平等になっていない。そこにやりきれない思いのようなものをわたしは感じてしまう。
 自分のことに置き換えてみれば、貧困層から一発逆転することがいかに難しいかということをわたしはひしひしと感じている。
 日本なら貧困はありながらも餓死するほどの貧困はない。しかし、世界に目を広げてみると生活保護制度があるわけでもなく、今日も飢えて餓死している人やお腹をすかせた人たちがいる。
 彼らにあなたがたが飢えているのは自己責任だと言い切れるのか。
 わたしたちは一人ひとりが徹底的に不平等である。能力、身体、精神、経済的状態、情報、環境、すべてが不平等で不公平である。不条理でさえあると言ってもいいかもしれない。
 その中でどうやっていくのが一番いい方法なのか。人類は今まで試行錯誤しながらやってきた。でも、問題は解決していない。もしかしたら解決不可能な問題なのかもしれない。でも、あきらめたくない。そんなことを思い、考えた今回の学びであった。


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