【放送大学】『家族問題と家族支援』第10回 DV(ドメスティック・バイオレンス)の問題構造

 1.DVとは

 DV(ドメスティック・バイオレンス)とは配偶者やパートナーなど、親密な関係にある(または、親密な関係にあった)相手から振るわれる暴力のことをさす。この回では、おもとして配偶者間の暴力として考えていく。
 DVは、夫婦という関係の中で起こるため、表面化しにくく、表面化しても夫婦喧嘩などと軽視されがちで、私的で個人的な問題とみなされやすい。しかし、DVは暴力であり許されるものではなく、社会的に対応すべき深刻な問題である。
 DVにはいくつか種類があり分類できる。おもなものとしては、「身体的暴力」「精神的暴力」「性的暴力」「経済的暴力」「社会的暴力」である。その中でも「社会的暴力」は、人間関係や行動を不当に監視したり、制限したりする行為をさす。その他にも「子どもを利用した暴力」などもあることを付け加えておきたい。
 DVは多くの場合、複数の種類の暴力が重なる「暴力の複合性」という特徴がみられる。
 暴力は男性から女性に対してだけでなく、逆の場合もあり、あるいは同性カップル間でもみられるが、被害者の多くは女性が圧倒的多数を占めている。
 これらのことから、DVは女性の問題として男性にとっては関係のない問題だと受け止められてきたが、近年、DVを男性の問題として捉える動きが出てきた。男性による女性への暴力をなくす運動としてのホワイトリボン・キャンペーンという啓発運動である。このキャンペーンのターゲットは、暴力を振るわない男性であり、彼らが女性への暴力の現状を知らなかったり、あるいは知っていても沈黙しているために、結果的に暴力の発生と継続に荷担しているという考えに基づいている。暴力のない社会を実現するには誰もがDVについて学ぶ必要がある。

 2.「女性に対する暴力」の社会問題化

 日本でDVが社会問題として認識され、政策課題とみなされるようになったのは1990年代後半以降のことである。背景としては、世界的な女性の人権運動の展開の高まりがある。1975年の国際婦人年を契機として、1993年の国連総会では「女性に対する暴力撤廃宣言」が採択された。こうして、「女性に対する暴力」は国際社会において優先的に取り組むべき課題となったことにより、日本国内でも政府が対応に動き出すことになったのである。
 そして、日本政府は1996年に「男女共同参画2000年プラン」を策定した。このプランの11の重点目標の一つに「女性に対するあらゆる暴力の根絶」が挙げられている。
 それから後の1999年には「男女共同参画社会基本法」、2000年「男女共同参画基本計画」と進められていったものの、政府はDV防止法制定には消極的であった。そして、何とか2001年4月に「DV防止法」(正式には、「配偶者からの暴力の防止及び被害者の保護に関する法律」)が成立したという次第なのである。日本のDV根絶のための取り組みは遅れているというのが実態のようである。

 3.DV被害の実態

 国によるアンケート調査によって、女性の3人に1人、男性の5人に1人がDV被害を経験していることが分かった。DVは一部の限られた人にだけ起きているのではなく、身近な問題なのである。男性のDV被害者も少なくないが、複数回被害にあったことのある人の割合は女性が圧倒的に多く、7人に1人がこれに該当する。さらに女性の20人に1人は命に関わるほどの暴力を振るわれたことがあり、非常に深刻である。テキストには被害女性の生々しい壮絶な経験が記されていて、事態が異様なほどに深刻であることが伺われた。
 傷害や暴行の被害者が女性であるのに対して、殺人では女性が加害者となるケースが少なくないのは、その女性が逃げることもできずに相手を殺すしかない状況に追い込まれたからではないか。著者はDV被害者に対する保護体制の不備が反映されているとみている。

 4.DVの構造と特性

 DVの構造を示すものとしては、「パワーとコントロールの車輪」の図がある。
 DVが車輪のかたちで表現されていて、車輪は外輪、その内側、車輪の軸の3つの部分からなっている。これらの詳細をみていくと、外輪は「身体的暴力」、その内側が「心理的暴力」「経済的暴力」「性的暴力」「子どもを利用した暴力」「強要・脅迫・威嚇」「男性の特権を振りかざす」「過小評価・否認・責任転嫁」「社会的隔離(孤立させる)」といった「非身体的暴力」であり、車輪の軸が「パワーとコントロール(力と支配)」となっていて、これは「男性の権力と支配」である。そして、背景には社会の「性別役割分担の強制」「結婚に関する社会通念」「子どもをめぐる社会通念」「世帯単位の諸制度」「女性の経済的自立の困難」「DV被害に対する援助システムの不備」がある。
 車輪の内側の非身体的暴力は目に見えずわかりにくい。この暴力が外輪の身体的暴力を支えている。そして、これらの暴力の相乗効果によって、暴力の威力は高まり、男性の力と支配はいっそう強化される。つまり、身体的暴力はもちろんのこと、非身体的暴力によって、女性に自責感情を植え付けたり、女性の自己肯定感を奪うことによって加害男性の支配から逃れられなくする。身体的暴力を振るわなくてもそれをほのめかすことによって、女性は非身体的暴力だけであっても男性の支配下に置かれてしまう。
 DVの本質的な構造としては、女性を無力化して逃げる力をも奪うのである。DVで夫の支配下に置かれた妻は、もはや思考力も判断力も停止状態に追い込まれている。
 このことは児童虐待の問題へとつながる。そうした状態で夫がわが子に暴力を振るっていても、母親として子どもを守ることができなくなっているのである。家庭という密室の中で、夫のDVにより無力化された妻は、暴力の被害者であるがゆえに、加害者にもなりうるのである。DVは相手を支配してその人の力を根こそぎ奪い取る卑劣な行為であり、社会はこのことを深刻に受け止めなくてはならない。
 女性のDV被害の背景には、男女間の社会経済的地位の格差がある。そのため、DVを根絶するには、社会における男女平等の実現が不可欠である。
 そこで、男女平等実現の有力な戦略とみなされているのが「ジェンダーの主流化」である。つまり、すべての政策領域のすべての政策過程にジェンダーに敏感な視点を組み込むことが必要なのである。
 そして、著者はまとめる。「DVを撲滅し、暴力のない社会を実現するには、DV被害者の保護体制を完備するとともに、ジェンダーの主流化を徹底し、男性優位の社会構造を是正することが不可欠である。」と。

 <わたしの感想>
 わたしはDVという言葉は知っていたけれど、詳しいことは知らなかった。「夫が妻に暴力を振るうのがDVらしい。」その程度の理解だった。
 予備知識ほぼゼロの状態からの今回の学びであったが、いろいろと考えさせられた。
 わたしは女性とお付き合いしたことがない人間なので、(2021年6月18日現在。続く?)もちろん結婚したこともない。だけど、パートナーは慎重に選んだ方がいいなとつくづく思った。
 パートナー。それは別居婚とかは別として、基本的に人生の多くの時間を共有する相手である。だから、どんな人をパートナーに選ぶのかということは人生を大きく左右する一大イベントであり外せない選択なのである。だから、多くの人はパートナーは慎重に吟味する。その人の言葉、行動、その他もろもろ観察できるところすべてから、「この人は信頼できるのだろうか」、「一緒に人生を歩んでいけるのだろうか」と懸命に情報を集めるのだ。
 幸せになりたくてみんな結婚する。夫婦になる。でも、現実には一定の割合でDVという現実が起こっている。
 どうしたらいいのか。どうすればいいのか。どうすればDVを根絶することができるのか。問題が起こっている背景が複雑でこれだという明日からDVをなくす方法のようなものはわたしには思い浮かばないし、そんなに生やさしい問題ではない。
 わたしが個人的に思うことは、大人になりきれていないんじゃないか、ということだ。本当の意味で成熟した素敵な大人は、パートナーを支配して力ずくで従わせようなんてことはしないし、むしろどうしたら相手を少しでも幸福にすることができるのだろうかと常に自問自答して、その相手のことを思いやる。そして、二人の関係を育んで豊かなものにしていこうとする。
 簡単に言ってしまえば、相手が嫌がることをするのはすべてDVだと言えるだろう。嫌がる相手に強要すること。これがDV。このシンプルな定義に従えば、いろいろなこの世の問題はすべてこれにひっかかる時に起きていることが見えてくる。
 むしろ相手が喜ぶことをする。そして、どうしたら相手が喜んでくれるだろうかと想像力をはたらかせる。そうすれば、独りよがりではなくなる。自分も相手も幸せになれる。それこそが愛ではないかとわたしは思う。
 けれども、なかなかこれが難しい。相手の立場になって、相手が喜ぶことを模索するというのはなかなか骨が折れる。手間も労力もかかる。自分にとっての欲望を追求する方が断然楽なのである。でも、そこに愛はない。そこにあるのは、相手を自分が気持ちよくなるための道具としてしか見ようとしない、つまり相手を人格として尊重できていない大人になりきれていない未熟な人間の姿なのである。つまり、相手を使い捨てのおもちゃとしてしか見ていないのだ。古くなったり要らなくなったら平気で捨てるような、そんな玩具なのである。
 ここまでまるで偉そうに一人前みたいな分かったような口調で書いてきたわたしだが、わたしが語った理想の愛を実践できるかどうかということは実に怪しい。でも、その方向性さえ間違っていなければ、きっとおかしな方向へとは行かないだろう。道をそれてしまったり、迷い込んだりすることあるかと思う。でも、方向性、つまり目的さえ見失わなければおそらく大丈夫なのだ。
 わたしにとっての方向性、それはイエス・キリストである。イエスさまに倣えばおかしな方向に行くことは絶対にない。これだけは断言できる。
 最後に宗教的な話へとリンクしたので、「そうまとめますか。」と思われた方もいることだろう。最終的には倫理的なものへとたどりつく。これがわたしの拙い持論である。人間を支える倫理的なもの。それがわたしにとっては、「わたしにとってのロールモデルはイエス・キリストだ」というところで落ち着くのである。イエス・キリストの教えを実践すればDVなんて絶対に起こらない。いや、起こるはずがない。隣人愛を説きながらDVするなんてことは不可能だからだ。
 DVの学びをしたことによって、さらに、いい人に出会いたいなぁという思いが強くなった。
 神様、良き伴侶を与えてください。


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【放送大学】『家族問題と家族支援』第9回 人生の終末期にある人の家族-支援のあり方-

 1.「死にゆくこと」をケアするホスピス

 死にゆく人やその家族を支援する活動は古くから行われていた。その一つがホスピス(hospice)である。ケア活動やその拠点となる施設のことをホスピスという。
 それは言葉としては4世紀ごろからあり、中世において旅人や巡礼者、十字軍兵士たちを対象とした修道院の宗教者などによるケア活動であった。そして、それはヨーロッパに広まった。
 19世紀後半には、医学や医療技術を導入した「死にゆくこと」へのケアに焦点をあてた近代ホスピスが作られる。
 そして、20世紀中頃には、がんの末期患者をおもな対象とする現代ホスピスが登場する。具体的には、1967年にシシリー・ソンダースが立ち上げたロンドンのセントクリストファーズ・ホスピスがはじまりであり、その後、バルフォア・マウント医師がモントリオールのロイヤル・ヴィクトリア病院で現代ホスピスを土台とした緩和ケアを考案し、1975年に緩和ケア病棟が開設された。
 ホスピスの理念は次のようなものである。
①死は生命の自然な過程であり、生命の終わりに近づいたときに成長の可能性があるとみなし、延命よりも個人のQOL(Quality of Life)向上を重視する。
②患者と家族を1つのケアの単位とし、ケアプラン作成過程への患者・家族の積極的参加や、患者の自己決定を促進させる。
③高いQOLを達成するために、身体面、社会面、心理面、スピリチュアル面での快適さ、患者の尊厳の保護、最期の時期におけるできるだけ自由な環境での生活を重視する。
④家庭でのホスピスケアの提供が望ましいが、不可能な場合、ホスピス施設や病院、ナーシングホームなどの施設でケアを提供する。
⑤ボランティアを含む多職種チームによるケアを提供する。
 また、WHOによる緩和ケアの定義は、「生命を脅かす病に関連する問題に直面している患者とその家族のQOLを、痛みやその他の身体的・心理社会的・スピリチュアルな問題を早期に見出し的確に評価を行い対応することで、苦痛を予防し和らげることを通して向上させるアプローチ」である。

 2.日本社会でのホスピス・緩和ケア

 日本のホスピス・緩和ケアは、草創期には自発的な個人や組織によるホスピスの設立や推進運動のかたちで始められ、後に医療政策に緩和ケアが導入されて発展してきた。
 詳細について本文には記されているもののここでは割愛させていただきたい。

 3.終末期にある人の家族の支援

 終末期にある患者やその家族は治療や療養をどのようにしていくか決めなければならないわけだが、その際にこの意思決定を患者やその家族と医療者やケアスタッフが共同で行うことをアドバンス・ケア・プランニング(ACP)という。患者の気持ちを大切にしながら、患者の情報を共有して意思決定していく。
 臨死期の患者の場合には家族が治療・ケアの決定を行うこととなる。その際には、医療者と家族が共に考え、共に責任を担うことが大切である。
 終末期の患者の家族に対しては、看病・看護する家族に対するケアを行い、臨死期にもケアを行い、死別を経験してからもケアを行う。特にこのケアをグリーフケアという。また、家族が患者の死と向き合う作業をグリーフワークという。そして、患者がなくなってしばらくしたら遺族ケアを提供する。
 医療者以外で予期悲嘆へのケアやグリーフケアを提供する専門家としては、チャプレンやビハーラ僧などの宗教者がいる。このほか、臨床宗教師という布教や伝道を目的とせずに魂の癒しを行っている専門家もいる。

 <わたしの感想>
 「人生の終末期にある人の家族」ということで、わたしにとってはぴったりな学びだった。祖母があと1年も生きられないという過酷な現実を前にして、家族としてどう向き合ったらいいのか、ということを考えた時、まだ具体的なイメージは浮かんでこないものの心の準備を少しばかりはすることができたように思う。
 わたしは当事者の家族という立場なのだが、スタッフ側はどのようなことをするのかということがよく分かった。
 終末期、臨死期、死別、死別後。実に手厚く患者とそれを取り巻く人々(おもに家族)をサポートしてケアしていく様子が伝わってくる。この分野で働かれている専門職の方たちはとても大変だと思う。人の命の終わりに寄り添う。なかなかこれは難しいことである。なぜなら、人間は機械でもなくロボットでもなく、生身の生き物なのだから。人間はコンディションが悪くなるとメンタルも不調になるもので、おそらくなかにはスタッフを激しい声で罵倒する患者や家族もいることだろう。でも、それでも彼らはこの仕事を辞めることはない。罵倒する彼らに仕返しとばかりに罵り返すのではなく、人間的に優しく寄り添っていくのだろう。人は必ずいつかは死ぬ。病気にならないで死んでいく人もいるけれども、病気になって死んでいく人が多くを占める。だから、彼らの仕事は必要な仕事だ。なくてはならない仕事だ。そうした尊敬の気持ちを医療従事者に向けたいと思った。
 しかし、一方でテキストに書かれているようなことが今一つわたしの祖母の場合には行われていないように思えてきた。どこか粗末なとまでは行かないが、配慮が行き届いていないようなそんな気がしてきた。祖母が外来通院という形態を取っていることもあるのだろうが、どこか医師任せになっているのである。この回で紹介されているホスピスならびに緩和ケアは一般の医療とは大きく異なっていて、とても優しいものなのかもしれない。この優しさ、この細やかさが一般の医療にも欲しい。そして、患者一人ひとりを全人的に大切に大切に扱って欲しいと思うのである。そして、患者だけではなくその周辺の家族などに対しても細やかな気配りをしてほしいのだ。わたしはわがままなことを言っているのだろうか。至極もっともなことを言っていると自分では思っているのだが。
 イライラしている。パソコンの画面ばかりを見ている。不機嫌。先生、先生と仰いでいないとご機嫌斜め。フラットな態度を患者が取ると怒る。説明をほとんど噛み砕かない。そして、患者や家族が理解できないとあきれたり「はぁ?」みたいな声を出す。デリカシーがない。
 医師不足で仕事の量も多くてイライラしているのだろう。ブラック企業並の仕事をこなしているのかもしれない。
 けれど、だからと言って患者をぞんざいに扱ってもいいのか。(こうなってしまっているシステムの問題でもあるが。)もっと医療は原点に立ち戻るべきではないかとわたしは思う。なぜ医療があるのか? 何のために医療は本来あるのか? こうした哲学的な思考がもっと問われていいはずだ。
 目の前の人を元気にしてあげたい。幸せにしてあげたい。痛みを取り除いて少しでも楽にしてあげたい。すこやかな毎日を送る手助けをしてあげたい。
 こうしたある意味、医療の現場を何も知らない者が言えた口ではないが、本来医療はそういう気持ちがあって誕生し発展してきたものではないのか。この心を疲弊しているあまり、医療者が失いかけているのではないだろうか。何とかしなければならない。
 感想をこうして書いているわたしだが、ふと昔あったある出来事を思い出した。それはわたしが入院した時のことだった。同室に新しく中年男性が入院してきたのである。その人はお薬手帳がないと大声でわめき始めた。しばらくすると看護師がやってきたのだが、その男性は看護師に「お前がお薬手帳をどこかへやったんだろう! 責任取れよ!」と激しくののしりはじめたのだ。看護師は必死になってその人の荷物の中を探していた。その間中、その新入りは看護師をわけがわからないくらいに矢継ぎ早に罵倒し続けているのである。「何もそんなに怒らなくても。」と思いながら傍観していたわたしだった。それから15分くらいしただろうか。もうお分かりだろう。お薬手帳がその人の荷物の中にあって見つかったのだ。わたしは看護師がその患者を怒鳴り散らすとばかり思っていたのだが、その看護師は怒るどころか、「見つかって良かったですね」と笑顔でにこりと本当に嬉しそうに言ったのだった。わたしはその看護師から尊敬すべき医療者の背中を見せられたのである。
 ここまでできなくてもいい。でも、患者とその家族を大切にしてほしいと痛切に思うのだ。頭が悪いのかもしれない。どんくさいのかもしれない。要領を得ないのかもしれない。けれど、大切に扱われたいのである。イライラしないでほしい。あきれないでほしい。突き放さないでほしい。そして、何よりも大切にしてほしい。
 今わたしが述べてきたマインドに医療者が立ち返ればきっと医療はもっと良くなっていく。(時間がかかってしまって待ち時間はもっと増えるかもしれないという懸念は想定されるが。)
 終末期のことをもっと勉強したいと思った。ぼちぼちやっていきたい。


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