飴玉

いろいろエッセイ
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 コロナ禍となり、地域活動支援センターまで行って精神保健福祉士のWさんと面談をすることがなくなった。その代わりに、ということで電話でお話しさせていただくことになったわたしである。
 思えば、あれはもう15、6年くらい前のことになるだろうか。精神の病気と診断されて右も左も分からない状態のわたしは父に連れられて嫌々、不本意ながらも従わないと父の機嫌が悪くなるので、地域活動支援センターに行った。
 不安に包まれてたどり着いたセンターで面談に応じてくれたのが、今もお世話になっているWさんだったのだ。第一印象は嫌な感じだった。何というか、その明るさ、笑顔がひたすらわたしにとっては嫌悪そのものでしかなかったのだ。脅威だったと言ってもいいかもしれない。こんなに苦しいのに、こんなに大変な思いをしているのに、この人はこんなに晴れやかな顔をして、わたしにひたすら微笑みかけてくる。何もわたしは愛想笑い大会に参加したいわけじゃない。そんなことを当時のわたしは思っていた。相手の明るい表情に嫌な感じがするというのはどれだけわたしが病んでいたのかがお分かりだろう。
 そんな嫌な感じの第一印象から始まったWさんとの関係は、彼女の誠意ある態度ならびにその知的さ、そしてそのあたたかな心によって少しずつ進展していき、わたしの厚い氷のような心が溶かされていったのだった。
 この間、Wさんがすごいと思うのは、一度もわたしの地雷を踏んだことがないことだ。どんなにわたしが病んでいるネガティブトークをしたり、嫌味を言ったり、悪意を向けたりしても彼女はそれを浄化してポジティブな明るいものに変換してしまう。まるでそれは魔法のようで、どんな状況であろうと合格点と言っていいような言葉を紡ぎ出す。
 この15、6年、月1で面談をしてもらうだけのゆるいつながりではあったけれど、Wさんはわたしに誠心誠意向き合ってくれた。困った時、立ち行かなくなった時、いつも相談に乗ってくれて、親身に話を聞いてくれて、助言を求めれば現実的で冴えたアドバイスを返してくれる。そして、決して自分の考えを押しつけたり、無理強いをしたりしない。おだやかに、しなやかにいつもいてくれて、足場を見失いそうになる時、もとの安全な場所へと引き戻してくれる。
 こうして月日が流れてわたしもWさんも歳を取ったわけだけれど、わたしは有り難いことに病気から回復してきた。元気になってきたのだ。だから、だから、今度はわたしがWさんを支える番ではないかと思うのだ。支えられるばかりではなく支えなければと思うのだ。と言いつつもわたしはWさんとは違って資格もなければ専門家でもないし、ただの素人でしかない。でも、ちょっとしたことはできるんじゃないか。何もわたしが彼女の悩みや苦悩をすべて解決したり、解消したりするわけではない。そんな重役はわたしの力量から言っても明らかに無理だ。
 そんな非力でか弱いわたしにもできることって何だろう? 自分ができる範囲で支えることではないだろうか。できる範囲というのが逃げだったり、責任回避のように思えなくもない。けれど、わたしにはできることしかできない。当たり前だけれども、できないことはできない。具体的には彼女をいたわることだろうか。気遣って大切に思うことだろうか。そして、それを言葉や態度で示すこと。
 Wさんは精神保健福祉の専門家として、今までに多くの人たちを大切にしてきた。大切に接して愛を注いできたのだ。が、果たしてその大切にされてきたわたしたち福祉の利用者だったり、患者が彼女にそれをできていたかと言えば怪しい。利用者や患者という立場に甘えてしまい、当然のこととしてあぐらをかいてしまい、専門家を気遣っていたわることができていなかったのではないか。「利用者や患者にいたわられる専門家ってダメじゃないの?」「自分のセルフケアをしっかりやってこそ、できてこそ専門家だ」。こうした意見はもちろんあるとは思う。でも、わたしはもっと利用者や患者がその力を発揮して、専門家を支えてもいいのではないかと思うのだ。わたしたちは非力なのかもしれない。無力なのかもしれない。役立たずなのかもしれない。でもね、わたしは無力だということを認めながらも無力では決してないと思うんだ。わたしたちサービス利用者にだって、患者にだってできることはある。だから、ほとんど意味のない支えかもしれないことは重々承知の上で、それでも専門家をいたわって大事にしてあげたいんだ。もしかしたらわたしたちの側からのちょっとした優しい言葉やいたわりの気持ちが専門家にみずみずしい活力や意欲を喚起させるかもしれないと思うんだ。「専門家なんだからこれくらいしてくれて当たり前」「お金をもらってやってるんだからもっとしっかりやれよ」「お前は専門家として失格だ」などと逆に叱責したりクレームをつけたら普段はおだやかな専門家だって仕事が苦しくなったり嫌になってくるんじゃないか。専門家だって人間だよ。気に掛けてもらえば嬉しいし、話を聞いてもらえば安心するし、ほめられればもちろん嬉しい。専門家だって完璧な人間なんかじゃないんだ。Wさんは優秀で聡明な人だからミスはほとんどしないけれど、専門家だって人間なんだから時には失敗したりミスしたりすることだってある。専門家は専門知識は身に付けているけれど、それ以外はふつうの人なんだ。そうであれば、いたわることだってもちろん必要だし、大切にされることだって必要だ。
 今日、Wさんと話をしていて思ったことは、あぁ、ふつうの人なんだなってこと。欠けもあり、弱さもある普通の人なんだなって思ったんだ。専門知識といういわば武器や鎧は持っているけれど、それを除けばわたしたち一般人と同じふつうの人なんだなってね。時折、垣間見せてくれる彼女の葛藤だったり、苦悩だったり、弱さだったりが何だかとても愛おしく感じられたんだ。
 わたしが彼女をどの程度支えられるかと言えば、おそらく口に含んだ飴玉くらいの働きだろうと思う。でも、飴玉だってそれはそれは人を癒してほっこりさせて気持ちを落ち着かせる。わたしはそんな彼女にとってのおいしい飴玉になれるものならなりたい。
 これからもわたしはWさんにお世話になりっぱなしだと思う。でも、今日の電話で感じたのは彼女との関係性が少しずつ変化してきているということ。一方的にわたしが支えてもらうだけの関係から、時にはほんの少しわたしが飴玉の精神安定くらいの支えをしているような、そんな感じに変わりつつある。何も気負わなくてもいい。わたしはわたしにできることをやっていけばいいのだし、それくらいしかできないのだから。
 ま、持ちつ持たれつ行きましょうってことですかね。目標。飴玉みたいな貢献を。もちろん無理せずにできる範囲でね。

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