だから、何?

キリスト教エッセイ
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 最近ネットを週2にして調子が良くなった。それも劇的に良くなり、読書や勉強に時間をあてられるようになり、充実した毎日を送っている、みたいなリア充ぶりをいかんなく発揮していたわたしだったが、またしても調子が悪くなった。それもドーンと落ちる感じ。
 勉強や読書のやりすぎなのだろうか。無理をしているのだろうか。運動不足なのだろうか。栄養が偏っているのだろうか。
 ともかく調子があまり良くない。わたしは調子が悪くなると、自分がいなくなった後の世界を想像して一人しんみりとする。思考自体がネガティブで悲観的になっているから、自分が死んでもおそらくみんなそんなに困らないだろうとか思ってしまう。そんなことはないのに、みんなきっと大きな衝撃を受けて悲しむだろうにその場に置かれてしまうとそうした優しさのある想像力が殺がれてしまうのだ。
 わたしはここ数日読書に勉強にと猛烈に邁進してきた。猛進してきた。が、それが果たしてどれだけの意味があるのだろうと思えてきてしまったのだ。何か一生懸命やっても空しいし徒労だしそもそも意味だってないような気がする。じゃあ、その意味のないことを何で必死になって懸命にやろうとするんだ? 意味のないことを意味がないと知りながらそれでもやるのはやはり意味がないだろう。
 意味。意味って一体何なんだろう? そして、仮に意味のあることがあるとしたらそれは一体何なのだろう? というか意味がないことはやはり意味がなく無駄でしかないのか?
 わたしが毎日6時間勉強したとしよう。さらに、執筆が一ヶ月に5万文字を達成したとしよう。筋トレをして美しく豊かなたくましい体を手に入れたとしよう。おいしい料理を作って喜んだとしよう、などなど。
 がここでわたしに強烈は反論の鉄槌が下される。
「だから、何?」
 この言葉はわたしの急所をえぐってくる。一番の弱点とも言うべきところを集中攻撃してくる。この「だから、何?」という言葉はこの達成したことや実現したことなどを喜んでいる人に対して、冷めきった疑いと否定の眼差しを投げかけてくる。
 早い話、目標を達成したところで、夢を実現したところでそれが一体何なのか、ということなのだ。「嬉しいんだ」「幸せなんだ」「達成できて喜んでいるんだ」それらを一言で全部叩き壊す。そんな言葉だと思う。
 わたしたちは何のために頑張っているのだろう。何のためと目的のためにやっているかのように言うこと自体に問題があるのだろうか。物事は何かの目的のためにやるものも当然あるけれど、目的のためではない純粋な何かをやりたいという動機でやっている場合もあるのだろうか。
 目的がなければ続けられないことはもしかしたら本当に自分がやりたいことではないのかもしれない、とも考えてみたりする。本当にやりたいことに目的はいらないのかも。目的なんていう最もらしい合理的なものがなくても自然とやりたくなってやっていること。それが本当にやりたいことなのだろうか。
「だから、何?」という強烈な鉄槌にもびくともしない堅固な建物は何だろう? わたしには神様くらいしか思いつかない。どんな人間の思想的な批判や非難や攻撃にもびくともしないのは神様だけじゃないか。
 つまり意味には権威が必要ではないだろうか。意味というものは誰かによって意味あるものとして認められたり、あるいは意味なきものとして否定されたりするものだと思う。だから、意味を与える存在が必要だ。わたしたちだって「~することは意味があるよね」と言う場合にはその意味があるとされていることが自分であったり、誰かであったり、はたまた大きく社会であったり、常識であったり、ともかく誰かによって意味があるとされていることなのだ。だから、わたしたちが生きているこの世界では誰かの意味と誰かの意味がバチバチ火花を散らしてぶつかり合うことがある。ある人はAという物事に対して意味があると言い、また別のある人は意味がないと言う。だから争いが起きる。
 ある人の意味は揺らぐ。別の人からその意味を攻撃されて揺らいでしまう。揺らがないようにする方法。それはその意味が権威ある者によって認められていると権威を笠にして箔付けして、こんなに偉くて正しい人が言っているのだからこの意味は確実なんだぞと確信を持つことである。もうこれしかない。だから、何かを主張する時に専門家の誰々が言っているとか、何人の人がこの考えを支持していて賛同しているとか、これは何とか大学の名誉教授が言っているということはよくあるではないか。これはつまり、意味を権威によって堅固なものにするということなのだ。
 だが、その権威付けられたこの意味(価値とも言えるだろう)であっても批判することは可能だ。「だから、何?」と言えばいいのだ。何か権威やら何やら持ち出してきているけれど、だからそれが何なの? とまるで開き直るかのごとく反論するのである。そうなると同語反復するしかない。「偉い何とかさんがこう言っているんだぞ。お前従えよ。へりくだれよ」と言うしかない。そうなったらまた「だから、何?」と同じ事を言われるだけなのは目に見えている。で、またその人が「何とかさんが言っているんだから」と迫るのである。
 ここで、「だから、何?」を言わせない方法が一つだけある。それは「神様が言っているんだぞ」と迫ることである。神様の権威をもって従わせようとするのだ。もちろんここまで強い権威を持ち出しても、「だから、何?」と切り返してくる神を畏れない人もいることだろう。でも、問答はこの最終的な権威を持ち出すことによって終止符が打たれるのだ。もうこれ以上、「だから、何?」とは言えないのだ。最終的な権威が持ち出された以上、それに対しては従わなければならない。
 だから、わたしはここで堅固な支えを得ることができる。「だから、何?」とわたしの営みを否定してくるわたしの中の心の声に対しては「これはみ心に従ったことなのだから確実に意味があるのだ」と応戦するのだ。聖書には神様のことばがふんだんに載っている。だから、そのみことばに沿うような努力や生き方をするとしたら、それはみこころに適う姿勢であり生き方なのだ。「神様がこう命じられているから」。これ以上に強力で堅固で反論を許さないものは他にはありえない。それでもその権威を問うてくる輩にはもう返す言葉はない。神を何とも思っていない人間がどれだけ「だから、何?」の大合唱をしたとしてもそんなのは何も問題のうちには入らない。強いて反論できるとしたら「それは神様のみこころじゃないと思うけど」とみこころの正誤について議論をふっかけることくらいだ。まぁ、神を信じる者同士の込み入った内輪の議論くらいだが。
 だから、神様のみこころに適った生き方には意味がある。神様が何を望んでおられるかと言えば、わたしが幸せに生きることである。そして、隣人と神様を愛する人間であってほしい。この2つを実践しようとするのがみこころに適った生き方だとしたら、自ら命を絶つなどという選択肢は最初から論外として除外される。幸せに生きるのだ。隣人と神を愛するのだ。自ずとベクトルは幸せな方向へと向いていく。
 意味。それは自分や他人によっても設定されるものではあるけれど、それは神様がわたしたちに与えてくださるものなのだ。そして、神様が最終的には判定なさるものだとわたしは信じている。どんなに人間が意味があると思ったり、また反対に意味がないと思ったとしても神様から見てそれが意味があることだとしたら、それは有無を言わさず意味があることなのだ。神様にとって意味があることは本当の意味で意味があることなのだ。もはやこれ以上のこれに優る真理はない。
 だから、神様のみこころに沿うような適うような生き方ができるように、それに近付いていけるように歩んでいく必要があるのだ。
 何か元気が出てきた。この記事書いてたら元気が出てきた。こう生きていけばいいんだと自分で書きながら再確認することができてわたしは救われたような思いだ。もしかしたら破滅的な結論に至ってしまうかもしれないと心配しながらの執筆であったが、良い方向へとまとまり導かれた。これもきっと神様のおかげだろう。神に感謝。みこころに適う生き方をしていきたい。

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